学術創成 総合社会科学としての社会・経済における障害の研究
Research on Economy and Disability
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Research on Economy and Disability
学術創成 総合社会科学としての
社会・経済における障害の研究

〒113-0033
東京都文京区本郷7-3-1
東京大学大学院経済学研究科 READ
研究代表者 松井彰彦
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§日々のこと,考えたこと

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2011年2月22日

READ2年間のアルバイトを通じて (国井志朗)

東京大学経済学部経済学科4年 国井志朗

きっかけはゼミの先生のプロジェクトだったからというただそれだけの理由でした。

大学3年の初夏、キャンパスが変わり生活環境も変化する中でアルバイトを探していたところ、ゼミの先生である松井彰彦教授から「自分の主催するプロジェクトのアルバイトを募集しています」との声掛けがありました。
先生が何をしているのか、そして私がそのバイトに行って何をするのか、今一つよく分からなかったのですが、「大学構内でできるし、気軽に行けていいかな」と、とくに深い考えもないままREADに参加させて頂きました(後先あまり考えないのは悪い癖で、昔から何度も後悔していますが全然反省しないようです)。当初は、就職活動も始まりつつある時期だったので、ほんのお手伝い程度の感覚でした(なので、まさか4年生になった時にここでのアルバイトが継続していて、かつ内定をもらった後毎日のように通うことになるなんて夢にも思いませんでした)。
最も、お話を初めてお聞きした時から松井先生は今までイメージしていた『経済学者』とは違う独特の考え方をする人だという印象があり、抽象的な経済理論の根幹部分の研究を続けてきた方が、障害と経済に関する実証研究という現実に近く学問的には境界に属するような領域にどうして関心を持ったのか、仕事を通じて知りたいという気持ちもあったように思います。

アルバイトは、今振り返ってみるととても有意義なものでした。
業務の中心は回収されてきたアンケート調査票のデータをexcelファイルに入力するという、ともすれば単純作業になりがちな行為で、実際私も最初のころはほとんど初めて動かすexcelに四苦八苦しつつ「なんだか単調な時間が流れていくなあ」と思ったりしたものです。しかし、アンケートは回答して下さった方が自分の実情をどうにか伝えたいと思うあまり作成者が意図しない回答も多々見受けられ、その度にどのように対処すればいいのかを仲間内で話し合ったり、時には先生方から「この障害はこういう特性があるから、この回答はこういう意図が含まれている」と丁寧な説明を頂いたりしながら入力を進めていく形になり、当初思った以上に頭を使う業務でした。
私は大雑把な人間で統計調査にも関わったことが無かったので「どちらでもいいじゃないか」と思うことも多かったのですが、データの扱いへの真摯さに「研究」とはこういうものかと恐れ入るばかりでした(そして自分の性格じゃ研究者は無理だろうなぁと、長年の夢を徐々にあきらめていったりもしました)。
慣れてくると、そういった個々の調整についてある程度裁量を頂きながら作業を進めていけるようになりました。頭をひねって一つ一つ課題を解決していくのは達成感も強く、また私たちが打ち込んだデータが統計調査の根幹資料になるということで地味ながらも重要な仕事を預かっているという自覚もあり、「自分が役に立っている」と感じることが出来てとても遣り甲斐があるものでした。
そして、入力を進め様々な人たちの生活実態が書かれているデータを見たり、先生方からデータを扱ううえでの背景知識として各障害の障害者を取り巻く環境を聞いたりする中で、障害のある方々という自分と同じ社会の中で生活しつつも全く関わってこなかった方々がいることに思いを馳せるようになりました。

僕自身はそれまで障害のある人と関わったことはなく、障害者を想定した社会の必要性を、理念としてはわかっていても実感を持って共感することは出来ずにいました。例えば、高校時代に授業の一環で車イスに乗ったりアイマスクをして歩きまわったりことがありますが、それは「一時的な体験」以上の意味を持たず、そこから、車イスに乗ってあるいは視覚障害となって生きていくということがどのような生活を意味しているのかを想像するに至ることはあまりない、といった感じです。

そんな環境で生きてきたわけですが、プロジェクトに携わっている方の中に障害のある方もいらっしゃり、いろいろなお話を聞かせていただくことが出来ていままで見えていなかった世界が見えてくるようになりました。障害のある方と関わったことが無かった私には彼らの発する実感のこもった言葉一つ一つがとても印象的で、私がなんでもないと思うようなことに困難を抱えているという生の声に、障害のある人達への施策 (身近なところで言えば、点字ブロックや駅のエレベーター)がどれほど重要なのか初めてはっきりと感じることが出来ました。
その一方、「障害者」という括りで語られる場合どうしても健常者との差異ばかり強調されてしまいがちで、私も「自分とは違う特殊な人」という固定観念があったのですが、業務以外で話した内容と言えばニュースの話や美味しいお店の話、旅行の話など障害のない友人などともするような話題が中心であり、私と同じようなことに喜んだり憤ったりされていて、幾つかの固有の困難を除けば決して特別な人たちではない、という確認するのも憚られる様な極めて当たり前のことに改めて気付かされたりもしました。

また、入力で目にしていたデータも障害者の生活実態を私に訴えかけてきました。
上述の通り私は統計関係に疎くデータも数字の羅列という程度にしか見ていなかったのですが、アンケートに目を通すたびに、それを書いて下さった方々がどのような生活をしているのか、まざまざと眼に浮かぶということが何度もありました(情報保護の重要性を初めて痛感させられた出来事でもありました)。特に、「障害と経済」という枠組みでの調査である以上、障害のある人達の経済実態、とくに就労に関しての質問項目が多かったのですが、障害を理由として就労できずにいる人たちが苦しい生活を強いられているのを見るにつけ、ちょうど自分が就職活動をしていたことも相まって生活のために仕事をしたいのに仕事ができない辛さがひしひしと伝わってきたものです(仕事をしているということが偉い、とかそういうことを言いたいわけではありませんが、経済的自立が精神的な自由や自尊感情を高めることは事実だと思いますし、自助努力でどうしようもない部分で就労へのハードルが上がるのは望ましいことではありません)。

日本の大多数の人たちは、障害のある人たちがどんな生活をしているのか知らない、もしくは知っていたとしてもその全体像は見えていないのが現状だと思います。今後障害者施策としてどのような対応をしていくにせよ、まずは現状を知ることからすべてが始まるはずです(こういうことは、以前は偽善的な態度でしかないという気が自分自身していましたが、しかし同じ社会に暮らす人たちに気を配ることに何の遠慮がいるのでしょうか。それに「やらない善よりやる偽善」という言葉もあります。自分の周りに少しでも笑顔が増えた方がいいと思いませんか?)。READの研究成果が広く世間に認知され、健常者と障害をもつ方々が分け隔てなく生活できる社会の構築へのきっかけとなることを、このプロジェクトにささやかながらも関わらせて頂いた者として願って止みません。
終りまで携われないのは残念でなりませんが、優秀な後輩たちをリクルートして仕事を託せたので、私の務めは十二分に果たせたことでしょう。

最後に本プロジェクトの成功をお祈りし、筆を擱(お)かせていただくこととします。

國井 志朗(くにい しろう)
福島県出身
福島県立安積高校卒業
東京大学経済学部・経済学科4年(松井ゼミ)

2010年4月10日

できるけど面倒なこと (倉本智明)

ぼくがウェブの閲覧にフィードリーダーを利用するようになったのは5年ほど前のことだ。フィードリーダーを導入することで、ブログやニュースサイトの巡回効率は格段によくなった。晴眼者(視覚障害をもたない人たちのこと)にとってもそれは同様なのだろうけれど、スクリーンリーダーを用いてウェブにアクセスしている視覚障害者の場合、その恩恵は遥かに大きなものである。

スクリーンリーダーは、ブラウザが読み込んだhtmlの記述にしたがってページを解析し、テキスト部分を順に読み上げていく。この場合の読み上げ順序が問題で、ページによってはブログ記事やニュースの本文に至る前に、最近の投稿記事やコメントの一覧、メニューや過去ログへのリンクなどを延々と読み聴かされる羽目になる。眼で読む場合のように、即座に画面のレイアウトを認識し、目的の箇所にフォーカスをあてるといったことができないのだ。htmlの書き方にもよるので、すべてのサイト/ページでそうであるわけではないのだけれど、うっとうしいことこのうえない。

「Read from READ」ではそのあたりを考慮して、タイトルのすぐあとに本文がくるようにしてある(*1)。ページ右側にあるメニューや過去ログ、カテゴリー一覧などは、スクリーンリーダーを使用している場合、本文のあとに読み上げられることになる。「まずはカテゴリーや最近の記事の一覧を見たい!」という方にはちょっと不親切かもしれないが、多くのスクリーンリーダー・ユーザにはこの方が便利かと思ってこういうかたちにした。眼で見る場合は、どちらでも特段の問題はないはず。

ともあれ、音声では読みにくいウェブサイトというのが結構多いのだ。ソフトにもよるが、スクリーンリーダーには各種のジャンプ機能が用意されているし、時に検索機能を組み合わせることで、慣れてさえしまえば、いちいち不要な箇所まで読まされることなく本文にたどり着くことはできる。けれど、視覚を使う場合とくらべるとかなり効率がわるい。そのため、どうしても読みたい場合ならともかく、ちょっとのぞいて……、くらいの気持ちだと面倒に思えることがよくあった。

この件に限らず、「できなくはないけれど面倒なこと」というのは、障害者問題について考えるとき、大切なのに抜け落ちてきた視点かもしれないなと思う。「できないこと」と関連した問題についてはみんな考える。「できなくはないけれど実用に耐えるだけの効率性がともなわないこと」についても、自立生活運動がもたらした自立観の変化のなかで考えられるようになってきた。

だけど、実用に耐える程度の効率はなんとか確保しているけれど、平均的な健常者が同じ行為を遂行するのと比較した場合、ずいぶんとエネルギーや時間を要する結果、強い動機づけがないと実行されないような行為が存在することについては、これまであまり考えられてこなかったのではないか。日常生活をより便利にする知識や技術が仲間内で交換されたり、エンジニアがそこに着目して問題解決を模索するといったことはたくさんあったと思う。けれど、そうした事柄の存在がもたらす社会的な効果について、本格的に探求されたことはあるのだろうか。

たとえば、「面倒」に思えてしまったことの蓄積が文化資本の多寡の差として現れるといったようなことはないだろうか。もしこのとき、「面倒」に感じられたことの原因が社会的に吸収可能(*2)なものであったとしたなら、生じた格差を怠惰などの個人的な問題だけに還元することはできなくなるように思うのだが、どうだろう?

  1. READのサイト内にはトップページのようにスクリーンリーダーでアクセスすると、先にメニューや案内文が読み上げられる構成になっているページもある。これはページの性格上、初来訪者への便宜を優先した方がよいかと考えてのものだが、そのようなページでは、リピーター向けにメニューなどをとばし直接本文にジャンプするためのボタンを先頭に設けた。
  2. なにをもって「吸収可能」とするかは議論の分かれるところだろうと思うが。

倉本智明(くらもと ともあき)
東京大学大学院経済学研究科 特任講師

2010年1月10日

どう考えたらいいのだろう? (倉本智明)

以下はあくまで仮定の話。こういうケースをどう考えたらいいのだろう。

Aさんは障害があり、そのことにかかわって既存の労働市場では、食べていけるだけの値段(賃金)で労働力を売ることができない。そのため、生活保護を受けてくらしている。

けれど、無給ではあるものの、Aさんは自立生活センターで重要な役職を担っており、毎日遅くまで仕事をしている。彼がボランティアで働かなければ、経営規模の小さなそのセンターの運営はたちゆかない。

ところが、生活保護を担当するソーシャルワーカーは、Aさんに、一銭にもならないセンターの職を辞し、たとえ月2万でも3万でも稼げる職に就くことをすすめる。

ここまでのところなら、ワーカーの言い分にも理解できるところはある。賛同するかどうかはともかく、現行の社会経済システムを前提とするなら、それなりに合理性をもった主張であるように思える。(実際には、収入と労働意欲がバーターの関係になったり、ほかにもいろいろとあるだろうから、このような選択が本当に合理的であるかどうかはわからないが)

けれど、つぎのような条件が付加されたとしたらどうだろう。

いまAさんがやっている仕事は、誰にでもまかせられるような単純なものではない。一定の能力と経験が要求される仕事である。とはいってもAさんにしかこなせないといったほどの特殊な仕事であるわけでもない。適切な賃金さえ支払うことができれば、代わりをみつけることもそう難しくないだろう。

ただ、センターの財政状況を考えると、そのポストのために予算を割く余裕はない。だからこそ、Aさんも無給で働いてきたのだ。

本来であれば、充分にくらしていけるだけの賃金がもらえる仕事を、タダでやってくれる奇特な人物を捜さなければならないわけである。人材探しが難航するだろうことは容易に想像ができる。

もしAさんが辞めたあとを埋める人材がみつからなければ、センターの運営はたちゆかなくなってしまう。結果、これまでセンターのサービスを利用することで自立生活を維持してきた人たちのくらしは一気に不安定化するかもしれない。(たったひとりのスタッフが抜けただけであやうくなるような運営体制はいかがなものか、とか、必要な人材に必要な給与を支払うことすらできない制度 or 経営センスってどーよ、といったことも、別途考えるべきではある。が、現にこういう状況にあるセンターがあり、Aさんのような人がいたら……、というのがここでの設定だ。実際に、これに近い事例はいくらでもある)

とはいえ、この時もし、Aさんが勤めるセンターと、量・質ともに同程度のサービスを提供できる事業所が近隣にあったとしたらどうか。

この場合、Aさんがセンターでやっている仕事は、利用者の生活を支えるためにどうしても必要なものなんだから、という理由--個人という単位でみると一見非合理であるように映っても、社会全体を単位としてみるなら充分合理性にかなっている--でもって、生活保護を受けながら無給の仕事を続けることを正当化する説明は説得力を失うこととなる。

とすると、やはりAさんはセンターの仕事を降りて、多少なりとも稼げる職に就くべきなのだろうか? 感覚的には「ちがう」と言いたいのだけれど、ちゃんとした裏づけをもってそう主張することができるかというと……。

ぼくは未だはっきりとした答をもっていない。

倉本智明 (くらもと ともあき)
東京大学大学院経済学研究科 特任講師

2009年11月10日

日々の授業風景から (河村真千子)

秋の学園祭が終わり、期末に向けて学生も安定した流れをみせはじめる時期となった。学園祭と言えば、サークルや有志の形で学生自らイベントを打つことから、イベントの宣伝やビラをもらったりする。

イベントといって思い出すのが、アメリカの911テロ事件である。筆者はテロのあった年にアメリカに滞在しており、いたる所で暴動が起こる毎日、愛国心を湧かせる国民、様変わりしていく社会、メディアのプロパガンダを眺めていた。

文化やコミュニケーションを専門にしている分野の傾向なのか、周囲には実に様々な人種や国籍の人がおり、そんな日々の中、皆で動きたくなった。

性別・人種・国籍・年齢・職種分野などの異なる参加者を、敢えてミックスしたチームを編成し、チーム全員でスタートし、一人も欠くことなく全員でゴールをするスポーツレースと知恵を交えたイベントを企画した。

最近、日々の授業で、その時に似た場面に遭遇することがある。
日本人が多くを占めるが、学年が異なったり、留学生や在日の学生もいる。身体的に障害をもつ学生もいる。どこか「ふつう」ではないと他の学生が感じ、笑いをもらう学生もいる。

ある日、テキストを持参せず、ただ座っているだけの学生。

河村:「だれか友達に見せてもらうよう頼みなさい」
学生:「あのぅ…(あなたは)友達…ですか?」

その学生が、隣に座っている学生に対して、「自分の友達かどうかを確認する」発言は、ある意味正しいものである。私が発した「友達」という発言は、個人的な友達ということではなく、隣の席に座っている学生や近隣に座っているクラスメートという意で使った。そして、他の学生も、その意を共有したがために、クスクスと笑いが出てしまった。私は、「だれか近くに座っている人や、クラスメートに聞いてみて。」と言い変えた。授業中に、言い換えをすることは「ふつう」であった。留学生から、日本語の理解が不十分なため、英語の単語や表現に言い換えを要求されることは、よくある。

911イベントの際も、同様であった。同じ物事や状況を指示するにも、実に様々な表現方法や単語があり、確認や議論なしには進まない。文化の相違ゆえに、どういう場面でどういう言葉を使うのかも、各々異なる。

しかし、911イベントと授業風景には、大きな相違がある。それは何なのだろうかと思い耽ってみる。

授業風景で起こる物事は、「ここではこうしておくものだ」という暗黙の了解みたいなものを当然視していることから、意外な発言や行動を「ふつう」でないとみなしている。

しかし、911イベントでは、「各人が異なる」ということを暗黙の了解として当然視している。その土台があって、競技ルールを守るために共有すること、難題を解決するために「ふつう」ではない工夫をすることだろうか。

ランチ後の授業始めに、平気でまだ食事をしている学生が増えてきた感があるとのことで、教員間でこんな会話をしたことがある。

A:「飲み物くらいは気にならない。」
B:「クッキーと飲み物くらいは気にならない。おにぎりだったらムッとするな。」
C:「バナナやカップラーメンまでされると、臭いも音もでるし、イヤだな。」

そんな矢先に、こんなことがあった。

学生が遅刻をしてきて、毎時間の定位置に座った。すると、カバンからコソコソと何かを取り出し口に運んだ。飴でも食べたのかと思いきや、モグモグと口を動かす。またカバンに手を突っ込み、せっせと口に運ぶ。

遅刻もあまりに遅いと欠席扱いになる。とにかく教室に行かなくてはいけない、と思ったであろうことは想像がつく。コソコソやっていることから、いけない(かもしれない)とわかりつつ、やっているのだということも理解できる。

しかし、“コソコソ”は、逆に大いに目立つものである!
何も言わなければこのまま続くだろうか…他の学生もまた何か言い始めてしまうだろう。

河村:「お昼を食べそこねたの?基本的に、食事は休憩時間にするという前提があります。そのもとで、私は、この授業内で食べてはいけないと言うつもりはないです。それは、お腹が空いていては授業に集中したり議論に意欲的に参加できないため、空腹を防ぎ意欲的に授業に参加、集中するためであるという認識です。ただ、クラス中に臭いがでるようなものは避けてほしい(学生が臭いが出るようなものを食していたわけではない)。」

学生は、何も言わずテキストと筆記用具を出し授業体制をとってから、カバンからジュースを出し、飲みほしてから参加していた。

他の学生らは、留学に行ったときに、飲み物を飲みながら授業をうけている人がいただの、リンゴを丸かじりしながら受けている人がいて驚いただの、そういう理由なのかなど、口々に話を始めていた。さらに、留学生もいることから、「ここが変だよ日本人」といった話や、障害のある学生が、「ここが困った学生生活」といった話など、ところ変われば常識も変わる話でひと花咲いた。

授業の最後になり、黒板に記述をしたら今日の授業は終了、という運びとなった。

河村:「誰か黒板によろしく。Any volunteers ? 」

その時、先の学生がモソモソ〜と立ち、黒板いっぱいに大きな字で記述をしてくれた。
他の学生の中には「や〜、授業が早く終わった〜!」と喜んでいるものもいた。

その記述は、完全に正解というものではなく少々の手直しが必要ではあった。しかし、そんなことよりも、答えることを渋ったり、面倒であるから取り組もうとしない者が大半の中、即座に出てきて記入をしてくれることは、大いに参加意欲のある「ふつう」ではない行動であると、私は思った。

911イベントでは「ふつう」ということは、あまり意味がなかった。逆に「ふつう」ではない工夫をすることの難しさに、意味があるように感じた。各チーム員が持っているこれまでの経験や文化の違いからくる常識の違いが、いい感じで活かされてくる。それは、突飛な発想や行動なのである。いい感じに各人が自分自身を発揮すると、チーム員全員がおのずと役割と責任を担っている。それは教えられるものでも決められるものでもなかった。

レース中に、失敗をする、タイムが気になる、そんなことが問題になる次元は、贅沢なのである。誰もが体力も極みに至ると、思わず口から出るのは母国語であった。そんな中、「自分が損をしないために」と考えながら動こうとする(余裕のある)メンバーが、多言語が錯乱した喧嘩を招き、まとまるのにとても時間を要しているようであった。

参加者は、体力も限界になると同時に、助け合い、憎悪が憎しみに変わる瞬間、責任感、各チーム員の自立した心の大事さといったコメントを寄せていたが、「自立」ということがキーワードになると思った。筆者自身も、基本のルール(メソッド)の軸を捉えながら、細部は自分/自分たちで工夫する、つまり大きくいえば「自立する」ということが試されるトレーニングのようなものだと思った。

そんなことを思い出しながら授業風景を眺めてみたとき、「ふつう」の見方が違って見えてくる。

グループ活動の課題をやってくるが、時に独特の発言に空気が読めないと笑いをもらう学生ではなく、グループの中で「自分が損をしないために」というスタンスで課題をこなしていこうと考えている学生が、浮き彫りとなってくる。

前者は、明らかに個とグループ全体への協調と相乗が形作られることに対し、後者においては、一見グループ全体を把握しているとも思えるが、それは錯覚であり、常に自分のことしか見えていないに過ぎない。さて、空気が読めていないのは、いったいどっち?

突飛なことを言ったりしたりする人を「ふつう」ではないと、一般的にはみなされる。しかし、国際化時代を生きていく人材が求められる昨今、「ふつう」でないとみなされている人の方が、実は国際化に相応しい人材、ということもなかろうか。

様々な社会的属性をもつ人々との911イベントを思い出しながら、日々の授業風景を重ね合わせ、取りとめなくそんなことに思い巡らす。

それにしても、コソ〜ッと取り出して食べていたもの、あれは何だったのか…?
(それが気になってしょうがない。)

河村真千子 (かわむら まちこ)
東京大学大学院経済学研究科 特任研究員

2009年9月10日

すずかけの木の綿毛が飛ぶロンドンで (瀬山紀子)

 先月のエッセイに続いて、私も、今年の5月初旬に行ってきたイギリスでのことを書いておきたいと思う。

 マンチェスター・メトロポリタン大学での2日間にわたる東大フォーラム終了後、ロンドンに向かった。マンチェスターからロンドンに向かうカラフルなヴァージン・トレインの車窓からは、ずっと先まで続く丘陵や草を食む羊の群れ、小川に浮かぶボートハウスといった、その昔に親しんだ児童文学にでてきたような世界が広がっていた。

 ロンドンでは、はじめに、滞在先のホテルで、2002年の札幌と、続く2007年の韓国で開かれたDPI障害者インターナショナル世界会議のときに会い、その後連絡をとっていたマルティナとブリジッドという二人の女性にあった。彼女たちは、ドイツにある「障害がある、女性とレズビアンと若い女性の国内ネットワーク(Nationwide Network from Women Lesbians and Girls with disabilities)」の主要メンバーで、ヨーロッパ女性障害者ネットワークの立ち上げにも関わっている。ロンドンにはまだ行ったことがないから、この機会に会いに行くよと、わざわざ、ドイツから、ロンドンにきてくれた。

 ドイツでは、今年の2月に政府が障害者権利条約を批准している。しかし、条約のドイツ語への翻訳に際して、「インクルーシブ」に当たるドイツ語はないといった問題や、重症とされる精神障害者の強制入院の問題などが残り、条約批准後に特にやらなければならないことはないとする政府と障害者運動の間で、問題が生じているという。マルティナとブリジッドの二人は、このところ、立て続けにドイツ国内で大きな会議を企画し、障害者権利条約のことやその課題について、障害者運動に関わる人以外とも共有しようと奔走しているようだった。ただ、ドイツ国内の若い世代の障害女性たちは、現状の社会に問題があるとは感じてないのではないか、ということに二人は危機感や焦燥感を感じているようでもあった。「障害女性に限らず、若い世代の女性たちは、自分たちはどんな選択でも自由にできると感じていると思う、けれど、実際には男女の賃金格差や職業選択の上の格差は今もあるし、そうした理不尽な状況を経験して、はじめて、社会に問題があることに気づいて一緒に考える人がでてきているのが現状かな」と二人。ただ、「どんな選択でもできると信じられるというのは、悪いことではない」とも。

 二人は、国内のさまざまな障害をもつ女性たちとのネットワークづくりや、ヨーロッパのネットワークづくりは、話し合いの土台をつくるだけでも、言語の問題や、コミュニケーション手法の問題、情報保障をはじめとする必要なニーズへの対応といったさまざまな課題があるけれど、あきらめずに、異なる女性同士が集まって問題意識を共有していくことが必要だと話していた。

 ロンドン滞在中、以前から行きたいと思っていたロンドン・メトロポリタン大学にある女性図書館にもいくことができた。この図書館は1926年に創設されたというから、かなりの古い歴史をもつ女性図書館で、イギリスに滞在したことがある複数の人から、ぜひ、行ってみるといいと教えてもらっていた。行ってみると、現在は、大学の一角にある5階建くらいのレンガの建物が図書館となっており、一階には展示スペースが設けられた静かで快適な空間に、イギリスを中心に、日本も含めた世界の女性学や女性運動に関わる雑誌や機関誌、また図書が所蔵されていた。

 さらに、その後、クロスロード女性センターを拠点に活動する障害女性の活動団体ウィンビジブル(Winvisble UK)を訪ねた。

写真:クロスロード女性センター

 クロスロード女性センターは、ロンドンのケンティッシュ・タウンという駅にほど近い一戸建ての古い家をいくつかの団体が共同で活動拠点としている場所で、センターを訪ねた日もたくさんの女性たちが集っていた。特に、この日は、黒人女性のグループが集まりをしていたようで、私たちがセンターについたときは、部屋は黒人女性たちであふれていた。センターの一階の奥には、台所もあり、集まっている女性の一人は、「この狭い台所が大活躍をして、ここで、何人もの人が一緒にご飯を食べているの」と、たのしそうに教えてくれた。

 ウィンビジブルのメンバーで、私たちの対応をしてくれたクレアさんは、1995年の北京女性会議にも参加し、日本の障害女性たちとも会っているという活動的な女性だった。クレアさんは、ウィンビジブルで活動をはじめる前、障害者グループのなかで、女性の問題が問題としてなかなか認められずにフラストレーションをためていた。その経験があって、「女性の問題に焦点をあてた活動をするために、障害女性の活動をはじめた」と話してくれた。

 クレアさんと活動を共にするディディさんは、同じセンターのなかのインターナショナル・ウィメンズ・ストライクという団体の事務局も務めているという女性で、彼女自身は障害はないが、障害女性への差別と闘う一人で、「軍事費を減らしてケアワーカーの支援を」という呼び掛け等もしていた。
ウィンビジブルでは、現在減らされてきている障害手当などの社会保障を、障害女性が受けられるようにサポートをしている。二人は、障害女性やシングルマザーは、社会的な手当を受け取ると、それと引き換えに働くことを要求されるが、そこでの仕事は非常に低賃金で、さらに、その仕事が続けられなくなったとしても、なんの保障も得られないものだ、と憤っていた。彼女たちは、そうした不当な状況を変革し、現在は、賃金収入とはむすびついていない労働(unwaged work)を担っている女性たちの仕事の価値を社会的に認めさせることが必要だといっていた。

 現在、ロンドンでも、さまざまな異なるグループが、社会保障や貧困といった共通する課題についてネットワークを組み、活動をはじめているという。

 ロンドンでのあっという間の数日が過ぎ、日本に帰るときがきた。滞在中は、特に、ロンドン在住の浜島恭子さんに大変お世話になった。ロンドンで会うことができた人たちは、なんだか、とても身近な仲間のように思える人たちだった。共通する世界の課題を考えながら、これからも、つながっていこうという思いを強くした旅だった。

すずかけの木

瀬山紀子 (せやま のりこ)
東京大学大学院経済学研究科 特任研究員

2009年8月10日

薄暮のマンチェスターで (臼井久実子)

前回のエッセイを書いたのは秋葉原事件からまもない時期だった。朝一番でコンピュータの部品を買いに出かけた日、帰路につくのがあと半時間遅ければ、事件現場にいあわせていた。今もまだ言葉にならない衝撃が胸中に沈んでいる。

この約一年、女性たちの手で、ワーキングマザーの貧困・パートや派遣などワーキングプアの問題を筆頭に、女性の貧困の可視化と課題化が進められてきた。そのなかで、子どもやパートナーや家族の有無や国籍などはそれぞれ異なる人々の、新しいつながりができてきている。その端に連なりながら、障害がある女性の貧困の可視化につとめてきた。日本の政治経済社会が、個人としての女性の貧困を、そして、障害者の貧困を、あたりまえのものとしてきたことが、労働の際限ない値切りと苛酷化、広く男性にも蔓延してきた貧困の土台にあるのではないか。ノンワーキング状態にあることが、人として価値がないようにみなされ、生存も危うくなるこの社会を、どのようにして変えていけるだろうか。そんなことを考えながら、東大フォーラムむけに、瀬山紀子さんと共同執筆した論文と展示用のポスターとを、スーツケースに詰めてロンドンに向かった。

フォーラムは、マンチェスター・メトロポリタン大学で開催された。朝早めに着いたので教室にも座ってみた。そこには、年齢層、人種・性別や障害の有無、文化的背景などが大きく異なる人たちがいた。授業の途中から出入りして全く気にする風もなく、すぐに話に入り込み、わいわいと遠慮なく質疑し議論している教室の雰囲気は、ずっと日本で過ごしてきた自分の経験にはなく、印象に強く残っている。キャンパスのあちこちにオフィスとスタッフをもつ学生サポートセンターの棚には、勤労者および失業者・留学生・障害者などのそれぞれにむけて制作されたパンフレットが、誰でも自由に手にできるかたちで置かれていた。

マンチェスター滞在中に、個人調査で、郊外のブレイクスルー社(Breakthrough UK)を、瀬山さんとともに訪問した。現地に人脈がなくウェブサイトで情報収集する中で同社のサイトにつながった。スタッフの65%が障害者で、かつ、障害者が働くことをサポートする事業をおこなう会社であること、代表者が女性ということからも、関心をもった。行ってみて、スタッフの約半数が女性であることもわかった。

各部屋に外光が射す設計の社屋が、住宅地の奥まった一角に建っていた。部門ごとに部屋が区切られていて、順繰りに案内され、それぞれのスタッフと言葉を交わすかたちになった。最初に話を聞いた人は、高機能自閉症と自己紹介していた。全盲、肢体障害、聴覚障害などさまざまな障害のある人がいた。それぞれの人の人種、文化的背景が多様なことは、ここも同じだった。交通アクセス・バリアフリーの課題を専門にしているスタッフもいた。どの部門で話を聞いている時にも、必ずといってよいほどアドボカシーという言葉が出てきて、重視していることが伝わってきた。

ブレイクスルーは、マンチェスター市議会が1990年代初頭に、障害者に本物の仕事およびトレーニングを提供するように政策転換して設立したもの。1997年に会社組織になった。インクルージョンとアドボカシーを主柱に、「当社はどんな形の隔離されたモデルも使いません」と宣言し、事業を進めている。設立時に市議会が出資し、さまざまな助成金や入札による仕事も獲得している。「社会において、フルに、経済的にアクティブな役割を果たすために、障害を持った人々を支援する」ことを目的に掲げ、雇用・自立生活・権利・責任・尊厳を追求、「雇用とトレーニング」「トレーニングとコンサルタントサービス」「雇用におけるアドボカシーと情報」「公的雇用」「政策シンクタンク」などの部門・チームをもつ。シンクタンクは、ちょうど、マンチェスター市の裁判所、検察、警察などによびかけて「障害者ヘイトクライム」について研究会を重ねてきた時期だった。トレーナー、コンサルタント、シンクタンクのスタッフは障害当事者だ。マンチェスター本社のほか、リバプールのオフィスでは雇用チームが活動している。カンファレンスもたびたび開催していて、メトロポリタン大学ともつながりがあり、フォーラムの会場でも、訪問時に出会ったブレイクスルーのスタッフと顔をあわせた。

代表のロレイン(Lorraine Gradwell)さんは、車いすを使う女性。イングランド北西部圏障害者連合(Greater Manchester Coalition of Disabled People)の創設メンバーの一人で、マンチェスター市の議会や諮問委員会の仕事に携わってきた。そしてブレイクスルー設立当時から職業紹介事業などで働いてきた。話す中で、不況下で資金確保に頭をいためているという話題も出ていた。"ブレイクスルー社のようなところは、英国でも他にはみられない。国レベルの政策が重要であり、そこに参画していくことが必要だと考えている"という趣旨のことを言われていた。持参した論文中のジェンダー格差を示すグラフをみて、すぐに英国の統計資料を手配して送ってくださった。

日本にはブレイクスルー社のようなところは見当たらないが、"障害当事者による自立生活運動団体が、障害者雇用サポートをおこなう会社を設立し、同時に、都道府県や市の政策決定過程に参画し、十全な社会参加と権利の確立をめざしているもの"と言えば、いくらか想像がつくだろうか。米国にも、障害者にかかわる職業紹介部門をもち、質量ともに高いサービスを地域社会に提供している自立生活センターがあった。これらと対比すると、日本では障害者が社会のあらゆる場面に参画していくというイメージからして貧困なことを強く感じる。障害当事者運動の歴史は四十年になろうとしているが、ともに学びともに働くということにはいまだに遠い実態がある。

瀬山さんが、ロンドンとマンチェスターのいくつかの団体に「ウェブサイトを見て関心をもったので訪問したい」というメールを、春先から送り続けていた。それが偶然、リバプールで演劇活動をしている障害者グループの目にふれて、ろうの女性が、マンチェスターのブレイクスルー社まで会いにきてくれた。以前から時々来ているとのことで、彼女の友人で視覚障害がある女性も同席した。社屋の中に、地元の障害者グループがよく借りているという小さな会議室があり、夕暮れのおだやかな光のなかで話した。4月末の英国はサマータイム、夜9時になってもまだ5時6時くらいの明るさで、電灯をつけなくても人の顔がみえる。広めのホールは、ふだんから、障害がある子どもや若者たちのセルフアドボカシープログラムの会場としても使われていて、色彩ゆたかなポスターや写真や図版が壁面いっぱいに貼られていた。

今回のフォーラム・個人調査のどちらにおいても、言語アクセシビリティ・情報アクセシビリティの面では、課題が大きかった。ひとつには、英語を駆使できるかどうかによる情報コミュニケーションのギャップがあった。また、聴覚障害者は、日本から参加したなかでは私一人だったが、フォーラムでのノートテイクに英国在住の知友の助力を得ることができたという幸運のうえで、カバーできる日程等は限界があった。東京大学は障害のある学生や教職員について積極的な取り組みをしてきているが、地方公共団体や国の政策を変えるように働きかけなければ解決しない課題も多い。フォーラムに参加したことは、改めて様々なことを考える契機になった。

臼井久実子 (うすい くみこ)

東京大学大学院経済学研究科 特任研究員
ウェブページ:
障害者欠格条項をなくす会

2009年6月10日

命拾い (長瀬修)

 昔は泳げなかった。泳げるようになったのは29歳の時だ。今が50歳だからほぼ20年前だ。泳げなかった時は、海は避けていた。泳ぎを覚えてからは海水浴にも行くようになった。

 4、5年前の夏である。妻の国であるマレーシアに8月に家族で出かけた。折角なので、妻の実家の町から足を伸ばし、マレー半島東岸沖のティオマン島という有名なビーチリゾートにも泊まった。滞在したホテルの沖に小島が見える。500メートルもない位の距離である。海面は静かである。泳いで行きたくなった。

 前日、魚を見るツアーに参加した折にその小島にボートで寄っていた。そのとき、泳いで海岸まで戻っている「かっこいい」観光客を見かけていたのがよくなかった。自分もその気になってしまった。

 日差しが強いので、白いTシャツを着て、小島に向かって一人で泳ぎだした。ホテルのプールにいる家族たちには何も告げなかった。

 泳ぎだしてしばらくたって気がついた。海面上には見えないが、実際にはとても強い潮がある。小島に向かって泳いでもドンドン流されてしまっている。きれいな海なので、海底を目印に軌道修正しようとしても、潮の力には逆らえない。

 しばらくして「諦めた」。体力を消耗するだけだと気づき、あお向けで浮いている状態に切り替え、体力を温存することにした。「まずいなあ。かみさんにも何も言ってなかったし。<行方不明>に気づいて、もしレスキューで海を探すことになるにしても何時間もかかるだろう・・・そのころにはこの潮で太平洋をどこまで流されていることやら。まいった・・・」などと、青い青い空を眺めていると、エンジン音が聞こえた。

 見ると小さなボートがこちらに向かってくる。助かった!安堵した。そのボートで海岸に無事まで送り届けられた。船を出すように指示してくれたガードマンに「二度とするな」と言われて、うなづくしかなかった。プールに戻り、家族に顛末を話し、当然ながら叱られた。 

 夕方になって、お礼のために、そのガードマンのところに顔を出すと、年のはじめに、その浜に新婚旅行で来ていたカップルの男性のほうが溺死するという事件があったので、自分が目を光らせていると、白いTシャツの観光客がまた無謀な動きをしているのが分かったという。案の定、流され始めたので、早速、救助の船を出すようにしてくれたのである。

 最近、ベルリンのユダヤ博物館を訪問した。ダニエル・リーベスキンドの建築で有名な同博物館が”Deadly Medicine”(殺す医学)というテーマで特別展を行っているのが目当てである。

 ナチスドイツはT4計画と呼ばれる、障害者の殺害計画を第2次世界大戦中に実施し、20万人以上のドイツ人障害者が殺された。そのT4計画もこの特別展に含まれている。

 T4計画という名称は、この殺害事業の本部がベルリンのTiergarten 4番地にあったことからつけられた。私は亡くなった米国の障害活動家・研究者のヒュー・ギャラファー氏の本、『ナチスドイツの障害者「安楽死」計画』(現代書館、1996年)を訳出したこともあり、T4計画に代表される障害者を殺す思想や力に関心がある。

 ガス室は、当初、T4計画の一環として、障害者を効率良く、「始末する」ために開発された技術であり、後になってユダヤ人の「最終処分」に利用されている。そうした意味でも、ユダヤ博物館で取り上げるテーマとしてふさわしい。
この特別展の一環として、実際にT4計画で殺されそうになった女性がインタビューに答えるビデオが上映されていた。現在は高齢の彼女は、当時「障害児」として、殺害施設として利用されていた精神病院に「灰色のバス」で送り届けられた。そこで、「シャワー室」の前で医者に最後の確認を受けたそうである。たまたま彼女は、その医者が「君はこっち」と言ったので「シャワー室」行きを免れ、命拾いしたそうである。まさに医学が恣意的に生死を分けていた。

 ベルリン行きにはもうひとつ目的があった。さきほどの女性が乗った「灰色のバス」を見ることである。精神障害者や知的障害者などを6つの主な殺害施設に送るために使われていたバスは灰色に塗られていたために「灰色のバス」と呼ばれている。そのバスが一昨年から復活しているというのである。

 Horst Hoheisel とAndreas Knitz という二人のアーティストがデザインしたT4計画のモニュメントである灰色のバスは2台製作され、一台は旧殺害施設のひとつに固定され、もう一つはT4計画に関係した場所を移動して展示されている(注)

写真:灰色のバス

 その移動式のものがベルリン近郊のブランデンブルグに設置されている(写真参照)。旧東ドイツ地区である。ブランデンブルグにも、殺害施設があった。この灰色のバスプロジェクトに携わっている方がボランティアで案内して下さった。高校で歴史を非常勤講師として教えながら、歴史の研究も続け、間もなく博士号が取得できる見込みだそうである。

 Tiergarten 4番地に現在建っているのは、ベルリンフィルハーモニーのコンサートホールである。その前や同ホールのバス停には、T4計画に関する情報ボードが設置されている。灰色のバスを含め、歴史を風化させない努力が続けられている。

 無謀さで自ら粗末にしてしまいかねない命もあれば、暴力的に奪われた多くの命もある。どれも同じ命である。自らの命そして生を大切にすることと、他者の命と生を大切にすることは同じ延長線上にある。しかし、その線を見失ってしまうことも多い。「障害」にとらわれて、その線を見失うことも多い。障害学も経済学も、そうした線を見失わないための枠組みとしての役割が基本だと思う。

[注]

  1. 設置の模様がユーチューブ(http://www.youtube.com/watch?v=1vuizzrcuy4)で見られる。

長瀬修 (ながせ おさむ)
東京大学大学院経済学研究科 特任准教授
ウェブページ:
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/~nagaseo/

2009年2月10日

英国出張と東大フォーラム (長瀬修)

 この1月上旬に久しぶりに英国を訪れた。その前に英国に行ったのは、2003年秋の英国障害学会の設立大会の際だった。その時には、ハプニングがあった。

 会場だったランカスター大学は郊外にあり、発表後、ランカスター市街の大きなバスセンターまでタクシーに乗った。運転手は英国人だった。わざわざ、そう言うのは英国では外国人、もしくは外国出身の運転手が多いからだ。これは何も英国だけでなく、例えば米国でもカナダでもドイツでも同様である。だから金は多少かかるが、タクシーに乗るのはいろいろな国籍の人間と話す好機であり、楽しい。最近でも、イラク人、ナイジェリア人、ソマリア人の運転手と話すことができた。

 さて、ランカスター市街まで結構、距離があり、車内で話す時間があった。その運転手は夏になると毎年、ヒマラヤに出かけて登山をするのが生きがいだと言う。夏に長期の休みが取れる職業として、タクシードライバーを選んでいるのだそうだ。今年は成長した息子と一緒に行けたのがうれしいと言う。私は彼を心の中で、「山男ドライバー」と名づけた。そんな話を聞きながら、バスセンターに着いて、タクシーを降りた。

 乗り場案内を眺め、次に乗るべきバスはどこか、時間はなどとしばらく探していると、先ほどの「山男ドライバー」が目に入った。こちらに手を振っている。なぜか、手に何か、赤いものを持っていて、向かってくる。近づいてみると赤い表紙の日本のパスポートである。私のパスポートだった!感謝の気持ちを精一杯伝えて分かれた。

 こういう体験は国内でしてももちろん嬉しいものだ。しかし、海外であればまた格別にうれしい。実際にパスポートを紛失した際の大変さもある。

 こうした嬉しい体験や出会いをたくさんの国でしてきた。学生時代に始めて訪れた外国であるフィリピン、交換留学で1年間を過ごした米国、卒業後に青年海外協力隊員として3年間を過ごしたケニア、国連職員として1年間赴任していたオーストリア、妻の里帰りで毎年訪問するマレーシアなどなどである。

 今回の英国でもそうした嬉しいことがいくつもあったが、まず、この出張の目的をお伝えしなければならない。東大フォーラムという海外で東大の研究成果の披露と、国際交流を目的とする事業がある(*1)。これまでは米国、韓国、中国などで開かれてきたもので、今年は英国で開催される。今回は初めて学内公募となり、私たちの経済と障害プロジェクト(READ)として申請を出し、それがめでたく採択されたのである。

 私たちのフォーラムは、本年4月29日と30日にマンチェスターメトロポリタン大学(MMU)で開催される(*2)。東大からは、経済学研究科のメンバーに加えて、先端科学技術研究センターの福島智さんや星加良司さん、それに大変うれしいことにネパールからの留学生を含む学生10名も派遣される。障害学生や支援者も交え、日本から総勢30名以上が出向くのである。英国側の主要な講演者としては、リーズ大学のコリン・バーンズさん、ニューカッスル大学のトム・シェークスピアさんなど、英国の障害学を代表するメンバーが得られた。

 大変重要な事業であり、事前の打ち合わせが欠かせないため、READの代表者の松井彰彦さんと一緒にマンチェスターまで赴いたのである。MMU側の窓口として獅子奮迅の働きをしてくれているのは、ダン・グッドレーさん(教授)である。英国の障害学研究者として、特に、知的障害者の本人活動の研究で知られている。

 マンチェスター空港までグッドレーさんが自家用車で迎えに来てくださった。その晩も早速、非公式の打ち合わせをバーとレストランで行う。グッドレーさんは翌晩も地元で有名なパブに連れて行ってくれた。

 今回のマンチェスターでのフォーラムはグッドレーさんの尽力なしでは実現できなかったが、彼との出会いも興味深いものだった。最初にあったのは、昨年の4月、マレーシアだった。

 国際協力機構(JICA)が、当時クアラルンプール駐在だった久野研二さん(*3)の発案で、知的障害のある人を初めて、青年海外協力隊員として派遣を行ったのが昨年の4月、マレーシアだったのである。知的障害者の本人活動推進のために一ヶ月の短期派遣である(*4)。その活動現場に応援団として顔を出した時に、出会ったのである。グッドレーさんはマレーシアとの知的障害者の本人活動や障害学に関する交流に熱心で、何度も訪れている。会ってその日に、ちょうど申請を検討中だった東大フォーラムへの協力を打診したところ、即座に快諾してくれたのだった。当時は申請に通るかどうかまったく未知数だったが、私たちの申請が東大の学内審査で認められてから、グッドレーさんにはMMU側の窓口として、ひとかたならぬ世話になってきた。

 到着した翌日は迎えに来てくれたグッドレーさんに同行してもらって、MMUを訪問し、副学長をはじめとするMMUの幹部との打ち合わせを行った。英国の大学では、副学長がトップであることを、今回のフォーラムに関する準備の過程で初めて知った。学長は王族が名誉職として務めている。

 MMUの実質的のトップであるジョン・ブルックス副学長にお会いしたが、社会的問題としての障害に関する意識と、実際的なバリアフリーに関する知識を両方とも持っていることが話の端々から分かり大変心強く思った。同氏はEquality Challenge Unitという平等に関する英国の法案について助言も行っている機関の委員も務めているそうで、そうしたことから障害に関しても詳しいようだった。なお、東大の次期総長に選出され、東大フォーラムへ出席する濱田純一氏も東大のバリアフリー支援室長を務め、現在も室員を務めている(*5)。ブルックス副学長からは、東大フォーラムへの共催への快諾のほか、フォーラムへの支援の約束や、アイディアをいただいた。

 今回は私たちの研究の成果の一部を英国で披露することとなった。日本国内でもいずれ、そうした機会を設けたいと願っている。

 国や文化を超えた現象としての障害そして、障害と経済の関係について新たな光を投げかける機会としてこのフォーラムを活かしたい。私自身はタクシーの中で、運転手との会話に夢中になってパスポートをなくさないように気をつけるのはもちろんだが、東大フォーラムを通して新たな出会いを期待している。

  1. これまでの東大フォーラムの経緯については右をご参照ください。
    http://dir.u-tokyo.ac.jp/kokusai/utforum.html
  2. 英文で恐縮ですがプログラムは下記をご参照ください。
    en/act/forum2009/program.html
    http://www.arsvi.com/w/kk07.htm
  3. 関連する国際協力機構の事業は下記をご参照ください。
    http://www.jica.go.jp/topics/archives/jica/
    2008/20080116_01.html

    http://www.jica.go.jp/topics/archives/jica/
    2008/20080201_01.html
  4. バリアフリー支援室のサイトは下記をご参照ください。
    http://www.adm.u-tokyo.ac.jp/office/ds/

長瀬修(ながせ おさむ)
東京大学大学院経済学研究科 特任准教授
ウェブページ:
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/~nagaseo/

2009年1月10日

逃げろ隠れろ (倉本智明)

 ぼくが大学に入学したのは1982年のことだ。当時の大学における障害学生への支援体制というのはいまとはずいぶんちがっていた。いまでも不十分な面はまだまだあるけれど、比ではない。大学による差はあるものの、提供されるサポートはごく限られたものだった。

 大学に入学したころのぼくには、まだ視力がある程度あった。板書された文字が読めなかったり小さな活字や画数の多い漢字がよく見えなかったりはしたものの、必要な場合は友人に尋ねるなど多少の工夫をすることで、なんとかなりそうに思えた。不便ではあったけれど、実際「なんとか」なったのである。

 そういったこともあって、大学からの支援は受けようとは思わなかった。思わなかったどころか、自分が障害者であることがばれないといいなとさえ考えていた。といっても、友だちや近しい教員にはふつうに伝えたし、隠したりしたら、かえって人間関係がややこしいことになったろう。

 できれば知られたくないと思ったのは、大学当局にである。入試を受けるときに健康診断書を出しているので、細かくチェックされればわかるだろうけれど、数値だけを流して読むと、強度の近視程度と勘違いしてもらえる可能性があった。たぶん、実際にそのとおりになったのだろう。

あのころというのは、障害をもっているとわかると、入学を拒否されることがめずらしくない時代だった。軽度の障害であってもそうだ。ぼくよりもっと視力のある友人の中にも、入学は認められたものの、学校側に一切「迷惑」をかけない旨の誓約書を提出させられた者がいたりする。支援どころではないのである。

 大学により対応はまちまちであるから、名乗り出て要望を出したら、もしかするとなにがしかの支援が得られ、もっと無理なく大学生活をおくれたかもしれない。しかし、それは賭けのようなものだ。入学前なら門前払いをくらう恐れがあるし、入学後であっても冷ややかな取り扱いが待っているかもしれない。予測を立てるための情報も残念ながらないのだ。

 いまからふり返ると、なんとも消極的な選択をしたものである。すべての障害学生が当時のぼくのように考えたとしたなら、いまあちこちの大学で取り組まれているような障害学生支援のしくみは生まれてこなかったろう。ぼくのように安全策に逃げるのではなく、リスクを引き受け賭けに出た人たちがいたからこそ、状況は変化し始めた。ぼくがそのことを理解するのは何年も経ってからのことだ。

 しかし、である。たとえそうであったとしても、そのことを理屈として知っていたとしても、あのころのぼくとおなじように、管理不能なリスクを引き受けるよりは、ぱっとしない状況に甘んじることを選ぶ人は常にいることだろう。ぼく自身、これからもそのようにふるまうことがあるにちがいない。性格といったこともあるだろうが、そこには一定の合理性があるからだ。その方が「うまくいく」ことをぼくたちは知っているのだ。なにを基準に、どういうスパンで「うまくいく」と考えるかはともかくとして……。

 もしも、いまのぼくがタイムマシンに乗ってあのころのぼくに会いに行き、「安全パイばかり選んでいちゃだめだ」と忠告したとしよう。おそらく大学生のぼくは、くだらぬ道徳をたれるオヤジに、ただ冷ややかな視線をむけるだけだろう。彼=ぼくは、どうしたら別の選択肢を考慮するようになるのか。啓蒙の光なんてまったく届かぬ場所が、世界にはいたるところにある。そのことをふまえた上で、答を探したいと思う。

倉本智明 (くらもと ともあき)
東京大学大学院経済学研究科 特任講師
ウェブページ:
http://www.kurat.jp/

2008年11月25日

単独者であること 第2回 (川越敏司)

「信仰とは、すなわち、個別者が普遍的なものよりも高くにあるという逆説である。」(キルケゴール『おそれとおののき』、問題1、桝田啓三郎訳、河出書房)

キルケゴールは、人間の幸福を、罪と永遠の至福という宗教の言葉で述べている。それだから、信仰を、個別者へのまなざしを、普遍的なものより上位に置くのだろうか?

「しかも注意すべきことに、個別者が個別者として普遍的なものの下位にあった後に、今や普遍的なものを通じて、個別者として普遍的なものの上位にある個別者となるというふうな逆説、個別者が個別者として絶対者に絶対的な関係に立つという風な逆説なのである。」(『おそれとおののき』、同上)

そうではない。キルケゴールは、「ある理念のために生きること」を選んだ人である。われわれが障害について語るとき、個別の障害者の個別な苦難へのまなざしから出発するのであるが、そこから止揚して普遍的なものを語ることによって、個別者が抹消されていく。モデル構築者によって「自分がその中に住まない世界」がそこに構築される。だから、キルケゴールは個別者へのまなざしを逆説的に取り出そうとするのだ。「ある理念のために生きる」ために。

「アブラハムの物語は、こうして、上述のような倫理的なものの目的論的停止(teleologische Suspension)を含んでいる。」(『おそれとおののき』、同上)

ここで、「倫理的なものの目的論的停止」とは、倫理的なものは普遍化可能なものであるというカント=ヘーゲルのテーゼの否定である。倫理は、普遍的なものである以上、万人に通用するような根拠をもっているはずだという信念の否定である。個別者を抹消しようとする弁証法の否定である。キルケゴールはそれをアブラハムの試練のうちに見ようとしている。

「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。 神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」(創世記22:1-3)

神がアブラハムに呼びかける。愛する息子を殺すようにと。そして、アブラハムは「神の命じられた所に向かって行った。」信仰のない者にとってこれは単なる神の理不尽さしか示さない。しかし、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教にとって、アブラハムこそ信仰の始祖であり、ユダヤ教でアケダーと呼ばれるこの箇所において、アブラハムは比類なき信仰を誇示したと言われているのである。しかし、ここにどのような倫理があるのか。

「悲劇的英雄とアブラハムとの差異はすぐに目につく。悲劇的英雄はまだ倫理的なものの限界内にとどまっている。」(『おそれとおののき』、同上)

アガメムノンが長女イピゲネイアを犠牲に捧げた時、彼にはギリシア軍のトロイア出兵を阻む嵐を鎮めるというテロス=目的があった。ギリシア軍の総大将たるもの、全軍のためには託宣に従って一人の命を犠牲にすることもやむを得ない。これは戦争という異常な状況下では普遍化可能な倫理であったかもしれない。たとえ、メネラオスやオデュセウスが総大将であっても同じことをしたに違いない。しかし、父としては耐え難い試練である。ここに英雄の悲劇がある。「倫理的なものの限界内にとどまっている」がゆえの悲劇がある。だが、悲劇はまだ倫理の枠内にとどまっている。誰もがその悲劇に自分自身を投影できるからこそ、そこにカタルシスを得ることができる。誰もが劇場で何度も死ぬことのない死を死ぬことができ、そして劇場を出る時、復活を謳歌しつつ生きることができる。

それと同じように、人は障害者をテレビのドキュメンタリーの中で見ることを好む。それは、番組制作者によって巧みに脚色されており、番組を見るものは、いつしかそこに障害者を見るのではなく、「障害」を負い、日々苦難にあっている自分を見るようになる。「これほどの苦難があっても立派に生きている人がいる、だから自分もがんばろう、がんばれるはずだ。」この人にとって、もはや障害者は存在しない。それは、自分の延長に過ぎない。自分と障害者、自分と他者との間の絶対に越えられない壁や溝はすでに取り除かれている。そこに映る障害者は、もしかしたら自分もなりえたはずの自分であって、他者ではない。可能世界に存在する自分を見ることで、カタルシスを体験し、日々の悩みから解放されて、明日もまた元気に生きることができる。そして、当の障害者は可能世界の彼方におきざりにされ、忘れ去られるのだ。だが障害者は健常者のロール・モデルではない。

「アブラハムの場合には事情が違う。彼はその行為をもって、倫理的なもの全体を踏み越えたのである。そしていっそう高いテロスを倫理的なものの外にもち、このテロスを前にして彼は倫理的なものを停止したのである。それだのに、どうして人はアブラハムの行為を普遍的なものに関係づけようとするのか。」(『おそれとおののき』、同上)

アブラハムの行為を倫理的なものの限界内にとどめる試みは多数なされてきた。ラビ・ソロモン・ベン・イサク、その名の頭文字をとって通称ラシ(Rashi)と呼ばれる11世紀フランスに住んでいたユダヤ教の聖書学者は、今日でも最も頻繁に参照されている聖書注解書を書いているが、神が「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを...焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」と呼びかけた箇所について、タルムード(Sanhedrin 89b)や創世記ミドラッシュ・ラッバー(Genesis Rabbah 39:9, 55:7)に伝えられたユーモラスな神とアブラハムとの対話を引用しつつ、次のように述べている。

「アブラハムは神に言った。「わたしには2人息子がいます。」 神は彼に言った。「あなたの独り子のことだ。」彼は神に言った。「この息子は彼の母にとってたった独りの子です。また、あの息子は彼の母にとってたった独りの子です。」神は彼に言った。「あなたの愛する子のことだ。」彼は神に言った。「わたしは二人とも愛しています。」神は彼に言った。「イサクのことだ。」 なぜここで神はアブラハムに最初から全部打ち明けなかったのだろうか?彼を突然混乱させて、彼が心を取り乱し、戸惑わせないためである。また、彼に与えられた命令を慈しみ、その一つひとつの表現から彼が報いを受けるためでもある。」

ラシの注解は、ユダヤ教徒の間で伝承されているアケダー理解の典型を示している。アブラハムもまた、いきなりはじめから、普遍的なものを超えた単独者として立ち上がったわけではない。神の命令の前に逡巡し、その意味を神に問いかけ、それを理解した上で、神の命令の一つひとつを守ろうとした。アブラハムもまた普通の人間であると。だが、果たして普通の人間がわが子に手をかけることができるのだろうか?ここには超えられない絶対的な壁があるのではないだろうか?わたしたちはこのアブラハムを「いつかありえたかもしれない自分自身」の延長として見ることはできない。ここに倫理はない。倫理的なものの目的論的停止とはこういうことである。目的も告げられず愛するわが子を殺すことは決して普遍化可能な倫理ではない。

障害者が生きていくことは、不自由なく社会参加する上での配慮を求めることは、普遍化可能な倫理に基づいていると言えるだろうか?車椅子利用者にとっては、建物内部がバリアフリー化されていることが望ましい。しかし、自閉症児にとっては、部屋の中は細かく仕切られ、構造化されていたほうが良い。この2つの要求を同時に満たすことは困難である。また一方では、こちらは車椅子用、こちらは自閉症児用というように、障害別に区分されることが批判されるからだ。だから、こうした障害者の主張は決して普遍化可能ではない。また、障害者のニーズは個別的である。これもまた障害者の要求の普遍化を妨げる。その共通項を取り出そうとして、誰にも適合しないものが実現されてしまうかもしれない。だから障害者は「普通に」生きることができない。障害者は「個別に」生きなければならない。だが、障害者が「個別に」生きるとは、「孤立して」生きることを意味しない。「自分もそうなりえた現実」として普遍化することによって、絶えず障害者の個別の経験を抹消しようとする傾向性を拒否することによって、他者へのまなざしを取り戻し、「我=汝」の関係を取り戻すことによって、障害者は普通の生き方を拒否して「個別に」生きることができる。そして、「誰かふつうを教えてくれ!」と叫ぶ声が世界を変えるのである。

(未完)

○川越敏司 (かわごえ としじ)
公立はこだて未来大学システム情報科学部複雑系科学科 准教授
ウェブページ:
http://www.fun.ac.jp/~kawagoe/index-j.html

2008年11月5日

単独者であること 第1回 (川越敏司)

「私はなにを知るべきか、ではなく、私はなにを為すべきか、このことについてはっきりした考えをもつこと…それは、私にとって真である真理を発見することであり、私が生死を賭けうるような理念(idea)を発見することである。いわゆる客観的真理の発見、哲学の全体系の考究と概観、そういう仕事がなんの役に立つというのか。国家に関する理論を展開し、あらゆる事象を一つの全体に総合し、そうして他人に見せるだけで、自分がその中に住まない世界を構築すること、こういうことが出来てなんの益があろうか…真理とは、ある理念のために生きることでなくて、なんであろうか。」(キルケゴールの日記、1835年8月1日、岩田靖夫『神なき時代の神 キルケゴールとレヴィナス』岩波書店から引用)

モデル構築者は偽善者である。モデル構築者は「自分がその中に住まない世界を構築する。」われわれが社会や市場について語るとき、果たしてわれわれは自分自身をそこに住む住人と考えてモデル化しているだろうか?われわれがそのモデルに従って政策提言するとき、自分自身が当事者であるものとして語っているだろうか?当事者であることを超越することが、普遍的に妥当することが、客観的で優れたモデルであると考えているのではないだろうか?党派的であること。何と古びた考えであることか。だが、モデル構築者は「ある理念のために生きること」をしないでいる。だが、キルケゴールは言う。「こういうことが出来てなんの益があろうか…」。

「倫理的なもの(das Ethische)は、倫理的なものである以上、普遍的なもの(das Allgemeine)であり、普遍的なものである以上、すべての人に妥当するものである。」(キルケゴール『おそれとおののき』、問題1、桝田啓三郎訳、河出書房)

カントやヘーゲルによって集大成されたドイツ観念論が倫理について到達したこと、それは道徳の普遍性ということであった。いつの時代、どの国や文化において、誰にとっても当てはまること、それが道徳の基礎付けになるのであった。しかし、「すべての人に妥当するもの」とはいったい何か?われわれはよく「そんなの常識じゃない。」「そんなの当たり前だろ。」と言う。病院で診察の順番を待っているとき、「待つ」ことがわからない自閉症児は、そわそわして辺りを徘徊し始める。痛い注射が待っているのかと不安になり、パニックになって大声を出し、病院から抜け出そうとする。必死に母親が引き止めようとする。周りの人にぶつかり、謝っている内に子どもは病院を飛び出す。ドアを閉めるまもなく、靴をつっかけながら母親は必死にわが子を追いかける。「ろくに子どものしつけもできないのか。」「静かにさせろ。」「非常識な母親だ。」誰もが普遍性の名において母親を非難する。誰も自閉症児を抱えた家庭の個別性には目を向けない。実は自分自身の利己性にしかすぎないものを、「世間の常識」や「人として当然のこと」として、普遍性の名において正当化し、人を裁く。

「単独者(der Einzelne)は普遍的なもののうちに自己のテロス(目的)をもつ単独者であって、彼の倫理的課題は、自己自身を絶えず普遍的なもののうちに表現し、自己の個別性を止揚して普遍的なものになることである。この単独者が普遍的なものに対して自己の個別性を主張しようとするや否や、単独者は罪を犯すことになる(sundigt er)。」(『おそれとおののき』、同上)

だから、単独者(der Einzelne)は自らの主張する倫理を絶えず普遍性に照らして検証しなければならない。それが普遍性を持たない限り、「単独者は罪を犯すことになる。」だから、単独者は自分の時代的・地域的・文化的・身体的な個別の制約を否定し、止揚し、普遍的な「人」とならなければならない。障害者は「人」にならなければならない。自閉症児を抱えた母親は、ただの「母親」にならなければならない。これがユニバーサリズムである。だが、フーコーは「人間の終焉」を語ったのではなかったか?

「もしこのことが人間および人間のこの世における生き方について(uber den menschen und sein dasein)言われうる最高のものであるとすれば、倫理的なものは、永遠に、そしてあらゆる瞬間に、人間のテロスたる人間の永遠の至福(ewig selikeit)と同じ性質をもつものとなる。」(『おそれとおののき』、同上)

現存在(Dasein)にとって、その幸福は、その倫理的な生き方は、自らの個別性や時代制約性を普遍的なものに止揚することにより達成される。個別者は抹消されなければならない。それが倫理であり道徳の基礎なのであり、西欧の形而上学なのである。

「この子は自閉症なので。」この母親の悲痛な声は、病院の待合室では普遍性を主張できない。「病院では静かにしているべきでしょ。」「みんな病気で大変なんだから。」「順番を守るのは当然でしょ。」誰も目の前の他者を見ない。誰もが存在しない普遍性だかりを語りたがる。普遍化は人称の変化をともなう。「我―汝」から「我―それ」への変化である。「他者とは殺したくなる存在である」とレヴィナスは言った。それは、「我―それ」の関係性から生まれるものである。だが、「死を与えること(donner la mort)」とは、「応答=責任可能性」を引き受けることではなかったか?「汝自身のように隣人を愛せ。」二人称の他者はどうしたら取り戻せるのか?「汝」と呼びかける関係をどうしたら築けるのか?Love is Blind, Blind is love...

(続く)

○川越敏司 (かわごえ としじ)
公立はこだて未来大学システム情報科学部複雑系科学科 准教授
ウェブページ:
http://www.fun.ac.jp/~kawagoe/index-j.html

2008年10月25日

どちらが、ではなく (倉本智明)

重度障害」「軽度障害」ということばは、身体機能や能力がどの程度制限されるかの度合いを表すものとしてふつう用いられる。経験される困難や被る不利益の大きさは、これに比例するものと一般には思われている。 軽度障害者とは重度障害者にくらべ抱える困難が量的に小さな人たち、という理解だ。

本当にそうなのだろうか。軽度障害者とは、重度障害者と健常者を両端とする直線の中間に位置する存在にすぎないのか。

軽度障害者の抱える困難が単に重度障害者のそれを希釈しただけのものではなく、独自な性格をもつものであることを、少なからぬ当事者たちが証言している。20代前半までを軽度視覚障害者として過ごし、その後今日までの20年余りを全盲の重度障害者としておくってきたぼくも、おなじような実感を抱く。

軽度のころといまと、どちらがより困難が大きいか、と問われたとき、こちらです、とぼくは簡単に答えることができない。ことや場面によって答はさまざまであり、ひとくくりにしてどちらかを名指すことには無理がある。

たとえば読書についていうなら、確かにある程度視力があったころの方が困難は小さかったろう。20歳くらいまでのぼくは、鼻先を活字にこすりつけるようにしてではあったけれど、書店に並ぶ本を自分の目で読むことができた。ページをめくる速度は果てしなくとろいし、画数の多い漢字に至っては推測で読むという荒技を必要としたものの、買ってきた本をすぐに読み始めることもできた。

いまはそうはいかない。本をいったんスキャナにかけ、OCRで処理するという作業を経なければ、全盲のぼくが活字にアクセスすることはできないのだ。1冊の本を完全なテキストにするには何十時間もかかる。校正を省略すれば短時間で仕上げることも可能だが、テキストはたくさんの誤認識を含んだものとなってしまう。

一方、逆の答となる場合もある。軽度障害時代のぼくは白い杖をもっていなかった。特に必要なかったのである。外見上も、一見したくらいでは視覚に障害があるとは見えなかったようだ。

とはいうものの、移動の際にまったく困難がなかったわけではない。杖なしでも電柱や人とぶつかることはなかったけれど、少し離れた場所にある看板などは見えなかった。特に困ったのは駅の運賃表だ。たいていは高い場所に掲げられているわけで、貧弱なぼくの視力ではとてもじゃないが歯がたたなかった。

そのため、通りかかった人に「○○駅まではいくらか見ていただけませんか」と訊ねるわけだが、これが実にやっかいなのである。もちろん親切に教えてくれる人もたくさんいるのだけれど、「なんだ、こいつ?」といった感じで怪訝な顔をされることがよくあった。

なかには「見えないんならメガネをかけろ!」なんて叱りつけるオヤジまでいた。ぼくはメガネをかけていなかった。かけても視力がほとんど変わらないからである。当然、その旨を説明するわけだが、これが結構な確率で通じないのだ。全盲ではない、けれど、メガネやコンタクトによる矯正が効かない眼というものがあることを想像できないようだ。

白杖をもつようになってからは、そういう心配はなくなった。いまのぼくに向かって、「メガネをかけろ!」と叱る人はいない。いたらちょっとおもしろい気もするけれど、そのような発言が見当外れなものであることをほとんどの人は知っているのだ。

おかげで、ぼくは軽度のころより多少気楽に周囲の人たちにサポートを求めることができるようになった。叱られたり、怪訝な顔をされたりするのは決して気持ちのいいものではない。

だれもが不自由なくアクセスできる運賃表の設置こそが、なによりの解決策ではあるだろう。周囲の人たちからのサポートは、その意味で代替的な手段にすぎない。しかし、たとえそうであるにせよ、これはこれで交通機関の利用をめぐる障壁がひとつ低くなったことを意味する。障害が重くなることで逆に困難が軽減することもあるという一例だ。

倉本智明 (くらもと ともあき)
東京大学大学院経済学研究科 特任講師
ウェブページ:
http://www.kurat.jp/

2008年9月5日

あなたはだぁれ? (倉本智明)

講義を終えて、教卓の上に広げていた資料やら時計やらをカバンにしまおうとしていたぼくに、ひとりの学生が声をかけてきた。「先生、この前の件なんですけど……」。ん? 「この前の件」ってなんだっけ?? あのことだろうか、このことだろうか……。該当しそうな要件はいくつか思いあたる。けれど、いま声をかけてきたこの学生が誰であるかがわからないため、そのうちのどれであるかを特定することができないのだ。などと書くと、ぼくの記憶力に著しい問題があるかのように誤解されそうだけども、そういうわけではない、と思う、たぶん、きっと、おそらく。

ぼくは全盲である。もちろん、ごく親しい人に、いつも出会うような場所で話しかけられたのなら、声や話し方だけでも、その人が誰であるかを判断することはできただろう。だけど、耳から入ってくる情報だけで個人を識別するのは、顔や風体といった視覚的な情報をもとにするのとくらべ、かなり難易度の高いミッションなのだ。意外な場所で偶然出会ったためではあるのだけれど、自分のパートナーの声がわからなかったことさえある。だって、そんな場所で会うなんて思ってなかったんだもの……。

だけど、お前が学生に声をかけられたのは教室だろ?、意外な場所なんかじゃまったくないやんけ!!、とのツッコミがすかさず入るかもしれない。。たしかに、小学校のように、1クラスが30人か40人くらいで、しかも、毎日顔を合わせていたとしたなら、もしかしたら、ぼくにだって、全員の声を聞き分けることができたかもしれない。けれど、このとき、担当していた講義の受講者は200人を越えていた。しかも、彼らとは、週に一度顔を合わせるだけである。この規模の講義では、授業中に特定の学生を指して答えさせたりすることもしない。むこうから質問にでも来ない限り、学生の声を聴く機会すらないのだ。

「この前の件」というくらいだから、この学生とは以前にもことばを交わしたことがあるのだろう。だけど、よっぽど特徴的な声ででもあれば別だけれど、一度や二度話をした程度で、相手の声を聞きわけることができるほど、ぼくの耳は上等にできちゃいないのだ。

きっと、いかにも「困ったなぁ」といったような顔をしていたのだろうと思う。このときは、こちらが尋ねる前に、学生の方から「この前の件」が具体的にどのようなものであったかについてことばを足してくれた。ほっとした。いくら仕方のないこととはいえ、「あなたはだぁれ? この前の件ってなぁに?」と尋ねたりするのは結構恥ずかしいものだからね。

こういったケースへの対処というのはなかなかに難しい。毎度毎度話しかけてきた学生に名前を尋ねればいいかというと、それはそれでコミュニケーションがぎくしゃくしたものになってしまう場合もあり考えものだ。声をかけてくれる際、むこうから名のってくれるのが一番スムーズかとは思う。学期始めの講義では、そのようにアナウンスもしている。だけど、学生さんはすぐにお忘れになるようで……。

研究や教育の本筋にかかわるハンディというものも確かにある。けれど、こうした一見枝葉に見えて、実は非常に大事な事柄をめぐって失敗やつまずきをおぼえることも少なくないわが職業生活なのでした。

倉本智明 (くらもと ともあき)
東京大学大学院経済学研究科 特任講師
ウェブページ:
http://www.kurat.jp/

2008年7月21日

既視感のなかから (臼井久実子)

今、「不安定雇用」、「格差」といった言葉を、毎日のように目にしている。かつて、「不安定雇用・長時間労働・超低賃金」という言葉は、障害のある人にあてはまることが多かった。一般雇用に入っていった少数の人も例外ではなかった。そして、失業状態の人、家業手伝いをしている人、働いているが労働者ではない「訓練生」が、障害がある人のなかで相当の割合を占めていた。たとえば、大企業の工場の隣に「福祉的就労」とされる授産施設があり、工場と同じ製造ラインで、「わずかな工賃でフルタイムで働く訓練生」を集めていた。

近年、障害のない人について幅広く「不安定雇用・長時間労働・超低賃金」の状況が生み出されてきている。過労の果てに病気や障害をもつようになった人の中には、「障害者として認定を受けて割当雇用で採用されることが自分の希望」と語る人がいるほどの状況となっている。安くいつでも契約を打ち切れる「派遣」などの身分がつくられるとともに、「正社員」もサービス残業などが問題になっている。境目が溶けているような感じとともに、奇妙な既視感がある。

1980年に障害者の自立生活運動にかかわり始めたころ、障害がある人が一般雇用で働くといえば、人の手をかりずになんでもできることが前提であり、職場の改善といえば、設備や機器のことに限られていた。障害者運動はそのことに早くから疑問をもって実践していた。「一般雇用か、福祉的就労か」の二者択一ではないありかた、それぞれの人に大きな無理がかからない、自分たちらしい働きかた・暮らしかたを模索していた。 無認可作業所のスタッフが地域の人とのつながりで職場を開拓していった雇用支援は、のちに「援助者をつけて働く」という言葉で定着した。それは、一般の会社や保育園やお店や官公庁などの統合的な職場で、仕事の内容や環境の調整について、必要な人的サポートを得ながら働くありかたとして、広がっていった。さらに、ある程度は、それを支える制度もできた。

点在している各地の活動を結び、経験を共有して情報発信しようと、チームを組んで泊まり歩いた。訪問した無認可作業所の中には、「ひとつがま方式」と名づけて、所得の集中と分配をしていたところもあった。そこでは、事業収入もカンパも、かかわる人の生活保護も年金も手当も、すべてをいったん集中、それぞれの生活状況を加味して、食べていけない人がいないように分配していた。金額など全員に案を開示してミーティングを開き、夜明けまでかかって決着することもあった。面倒なことも何度もくぐりながら運営してきたエピソードを、泊めてもらった事務所の隅で関係者から聞いたことを、最近また思い出している。当時から活動していたところのいくつかは、その後、自立生活センターになった。

一時的にあるいは長期間、勤労収入をえられない状況でも、下支えとなる所得保障があれば、そして、頼り頼られる人のつながりがあれば、人は簡単には絶望はしないと思う。社会的経済的格差の拡大の中で、なおさら、そう強く感じることが増えている。

READにかかわって、障害がある女性に聴き取りをしてきている。話に入る前にREADの説明をしたとき、すぐ、こう言われたことがある。「障害にかかわることって、なんとなく、やわらかく考えられていないかな。障害学と経済学を結びつけること、きちっと、科学として、障害学がとらえられることは大切と思う」

 

たしかに、障害というと「支え合い」など情緒的な感じでとらえられやすい。そして障害と経済とは、以前から関連の深い、実践のうえでも切実な分野だが、そのわりには「きちっと、科学として」扱うことが少なかった。現実の問題と実践と調査研究活動をつなげていくことが期待されている。

障害と経済のあいだに、どのような橋をかけることができるか。既視感のなかから、未踏ともいえる領域に、いくつかのキーワードを手がかりに、漕ぎだしている。

臼井久実子 (うすい くみこ)
東京大学大学院経済学研究科 特任研究員
ウェブページ:
障害者欠格条項をなくす会

2008年7月1日

障害者家族ですけど・・・。 (河村真千子)

障害のある人のきょうだいとして生きていると、ただそれだけで褒められたり、逆にからかわれたりする。姉が粗相をしていると「ちょっとちょっと、妹さんを見てあげてね。」と言われたものだ。知的障害のある人は、なぜか幼い扱いを受ける。何が偉いのかわからない。年上はあちらです、と内心思いつつも、「またか…。面倒くさいから、はいはい。」と筆者は思ったものだった。(大人になって図々しくなると、「おねぇちゃ-ん」と大声で叫んでみる。「あらっ、あなたの方が妹さんだったのね・・・ごにょごにょ。」ということも少なくない)。

福祉ということにあまり関わらずに過ごしてきた筆者にとって、「福祉」とはどこか偽善的な印象と、崖から足を引っ張られるような思いのする、足を踏み入れてはいけない域のように感じていた。それは筆者自身、障害があるわけではない(と思っている)のだが、同情という名のもとに籠の中のカナリアになるような感覚があった。そして、同時に別の一面もあった。うまく表現できる方法がないかと思案し、こんなイメージがふと湧いた。

ミツヤサイダーやキリンレモンに醤油を一滴ずつ垂らしていくと、絶妙なバランスでコーラの味になるときがある(ちなみに、ミツヤサイダーを使うとCoke、キリンレモンを使うとDiet Cokeといった感じである)(注1)。醤油が少しでも多いと辛い、少なすぎてもパンチに欠ける。コーラになる瞬間を作り出すことが面白く、さっさとジュースを飲めばいいものを、子どもの頃にはこんな遊びをよくやっていた(子どもながらに緊張とワクワクが同居する遊びだったが、力作なくして疲れて飽きると、テーブルの上に放置された少々辛い失敗作は、言うまでもなく清涼飲料水が大好きな姉に飲みほされていた・・・ゲップ)。

話を元に戻すと、筆者にとって福祉専門職の「専門」とは、このようなことと同様のことであると思いながら育ってきた感があった。炭酸飲料水と醤油は同じカテゴリーにあるものではないけれど、家族として知的障害のある人と暮らしながら社会生活を送る中で、異なるものから新しいものを作り出すことや、絶妙なバランスを作り出すことが必須となる生活を、感じてきているからだと思う。そういった意味で、実に多様性に富んだ知的障害のある個々人に接する仕事とは、炭酸飲料水と醤油だけではなく、赤色に青色を足しながら、その人に一番似合う紫色で染めたTシャツを作るかのような、適したニーズと方法を素早く察知していく能力に猛る必要があるのではないかと思っていた。だからこそ「難しい仕事=わたしには程遠い」と思うと同時に、福祉専門職者への尊敬もあった。

現在の筆者は、文化やコミュニケーションの視点から障害問題について研究をしていきたいと思い、取り組んでいる。異なることに興味をもつ性格が影響したのか、海外や多文化の中での人間関係に興味を持つことから魅かれた学問分野であるが、このような視点から障害問題を追究していこうとしている。

筆者自身、障害者やそのことから派生する「障害」について研究していくことについて、複雑な気持ちがなかったとは言えない。それは例えば、障害者といえば福祉の対象者として「福祉」の分野で扱われる印象がある中で、コミュニケーションという学問の中で障害者の「障害」について研究していきたいと思っていること。障害者と生きてきている筆者の環境が、身近な一人という環境ゆえに、特別ではあるのだがどこか特別に思えない、という矛盾したところがあること。さらには、数学者であれば数字に強くなる、文学者であれば文学作品に詳しくなる。しかし、十把一絡げ的に障害者に良きコミュニケーターという感覚はありえないと思う筆者にとって、コミュニケーション研究者であれば良きコミュニケーターとなる、という構図はなかった(注2)

筆者が障害者の「障害」に関心をもつということは、筆者の環境ゆえの影響が全くないとは言い切れないと認識している。ごくごく自然な繋がりである。しかし、「障害のある人をきょうだいに持っているから」ということが、関心をもつ正当化された理由と捉えられることには、どこか反発があった。「きょうだい」として生きてくる中で、「福祉」に関心を持つことが、良いことだと思わせられる社会の勢いがある。さらには、社会一般の人々がとる行動であれば許され、見て見ぬふりをするような行動でさえ、家族には許されないという矛盾も突きつけられる。「ちょっと待って下さいよ、それは『障害あり』『障害なし』というシステムによる、悪意なき社会からの心の恐喝ではないのですか?」という具合である。このように熱き心を持ち合わせていない筆者にとって、「きょうだい」が、障害者に関心を持つことを正当化するに値すると思われることは、筆者がたちまち偽善者の仲間入りを求められる思いがし、自分を買い被らなければいけないと思う装いというよりは、間違っても誤解であり困る、と思っていた(*3)

一番深く考えさせられたことは、結局のところ、障害者あってこそ「自分」がある、という構造だった。社会を二分している障害と非障害という大前提を前にして、その狭間で生きるきょうだいという立場は、少なくとも現在の社会においては、常に障害者には勝てない(非障害者の)「自分」であるということ。そして、自らその選択をするということを意味するような錯覚を感じる、研究以前の「自分」であった。着目したい筆者の研究視点とは異なり、なんだか納得がいかない。そんな煮え切らないことを考え渦に巻かれつつも、面白さにはまってしまい、その後はワーキングプアを選択する身だった。

そんな筆者が、障害者の「障害」について学びを深めていきたいと努めている中で、最初に違和感をもったことは、当事者という言葉だった。当事者という言葉が、障害者について語るときに使われているということに違和感をもった。というのは、筆者にとって「当事者」は、障害のない一般の人々も「当事者」であるととらえて言葉を使う感覚があった。しかしそうではなく、当事者という言葉は、障害者もしくは、少し枠を広げて障害者の家族や福祉関係者くらいまでが、あくまでこの言葉が使われる意味の射程なのだ、と改めて気づかされる状況であった(*4)

「共に生きるということ」「障害のある人が家族としていた」「家族になった」「定義がないにも関わらず、障害があると見なされて社会に存在し生きている」というような、“ただ”ということの影響や背景を、人間の社会的行動や文化的思考を通して研究していきたいと思う。それは、奇麗な建物をデザインすることや、素晴らしい橋の形を考えようとすることではなく、向こう岸への渡り方を考えることのように思っている。そうした中で、エッセイタイトル「障害者家族ですけど…。」を、「障害者家族ですけど…何か?」へと変えていけるように思っており、コツコツと勤みたい。

  1. この遊びは本当である。懐疑心をお持ちになる方は、今日の宿題として持ち帰りいただき、コンビニエンスストアへ立寄りの上、是非ともお試し頂きたい。尚、筆者は(株)アサヒ飲料の回し者でも、(株)キリンビバレッジの回し者でもないことをお断りしておきたい。
  2. 否定をするわけではなく、コミュニケーション学が、教養ある学問的知識や概念を、どんなに机の上で学んでも学びきれないところがある。“これがコミュニケーションということだ”という、当然視していることの奥深い複雑さということであると思う。自己内省とともに、たゆまぬ努力が必要になるものであると思っている。
  3. 別な視点からとらえ、「きょうだい」が福祉分野において活躍していることも筆者はよく理解しており、心強さを感じると共に尊敬をしている。
  4. 当事者という言葉を障害者当事者という設定で一般的に使用していることは十分理解している。ただ、会話の途中から筆者の言葉の使用域が広がっており、相手との会話が拡散することに自ら気づいていた。

河村真千子 (かわむら まちこ)
東京大学大学院経済学研究科 特任研究員

2008年6月21日

おしゃれ用? (西倉実季)

円形脱毛症という病気をご存じだろうか。年齢や性別を問わず発症する皮膚疾患である。名称から、10円玉の大きさほどの脱毛がイメージされがちだが、それが複数できる「多発型」、髪の毛全体が抜け落ちてしまう「全頭型」、髪の毛だけでなく、まゆ毛やまつ毛、さらに体中の毛が抜け落ちてしまう「汎発型」のタイプもある。詳しい原因はまだわかっていないため、子どもの頃に発症して以来、ずっと髪を失ったままの人も少なくない。

今月、円形脱毛症の2つの患者会がイベントを開いた。どちらの患者会でも共通して話題になっていたのは、かつらの費用負担が大きいということだった。多くの患者にとって、かつらは社会生活を送っていくうえでの必需品である。自分の容貌がみるみるうちに変化してしまうショック。人から視線やからかいの言葉を向けられる苦しみ。かつらはこれらの精神的苦痛を軽減するものであり、他者とのコミュニケーションが途絶え、社会との接点を失ってしまわないためになくてはならないものである。

毎日使っているうちに次第に痛んでくるため、かつらは数年ごとに買い換えなくてはならない。頭の形にフィットする、肌色と違和感のない髪色にできる、日常の行動パターンを考慮して製作してもらえる(たとえば、屋内でのデスクワーク中心の人と屋外で体を動かして働く人とでは、希望する性能は異なるだろう)などを考慮して、既製品ではなくオーダーメイドを選ぶ患者は多い。髪の長さにもよるが、オーダーメイドのかつらはひとつ数十万円にもなる。けれど、現在のところ、かつらは保険適用が認められていない。義肢が身体機能を補うものであるため適用が認められているのに対し、義髪(医療用かつらはそう呼ばれることがある)は「おしゃれ用」と見なされ、適用の対象にされていないのである。そのため、患者の経済的負担はとても重く、ローンを組んでかつらを購入している人もいる。

もちろん、円形脱毛症のすべての患者がかつらを着用しているわけではない。けれど、スキンヘッドで社会生活を送っていくことは多くの女性にとってはほとんど不可能であるし、最近はファッションとして取り入れている人もいるとはいえ、男性にとってもけっして容易ではない。営業職や接客業など、とりわけ「普通」の容貌であることが求められる職種の人にとっては、髪の毛がまったくないままで仕事をしていくことは難しいだろう。「たしかに命にかかわる病気ではないが、社会的には死んだようなもの」。これは、髪の毛を失った状態で生きていくことの過酷さを表現した、ある男性患者の言葉である。かつらは患者が社会的な死に陥らないために重要な役割をはたしているのであり、それを「おしゃれ用」と言ってしまうのは、あまりにも理解が足りない。

2つのイベントに参加してもっとも印象的だったのは、グループディスカッションの時間に、ベテラン患者(発症して時間が経過している人)から、発症したばかりの人に体験に基づく知識が伝えられていたことである。現在のかつらは改良が重ねられて通気性がよくなっているとはいえ、夏は大量の汗をかくため、かつらの中が蒸れてしまうという。発症して初めて夏を迎えるというある患者が暑い夏を乗り切る方法を質問したところ、何人かのベテラン患者が口をそろえて紹介したのは、頭の上にクッキングペーパー(!)を敷いて汗を吸収させるという方法だった。かつらメーカーでも汗取りパットを販売しているのだが、安くないうえ、使い勝手もあまりよくないらしい。日常生活に役立つ実用的な知識を持っているのは、医師でもかつらメーカーでもなく、当事者自身なのだということに改めて気づかされた2日間だった。

  1. 円形脱毛症について知りたい方には、当事者の体験記集『誰も知らない円形脱毛症』 および『あなただけではない円形脱毛症』を勧めたい。
  2. 西倉実季 (にしくら みき)
    東京大学大学院経済学研究科 特任研究員

2008年6月1日

介助者という関わり (瀬山紀子)

いくつかの偶然のきっかけから、それまで自分が関わることになるとは思ってこなかった(どちらかといえば、「障害」という問題が語られる場所のひとつである「福祉」という言葉の「偽善的」語感に、近寄り難さを感じて、遠ざかってきた)障害がある人や障害ということにまつわるさまざまな「問題」に、深く関わるようになって10年ほどの時が過ぎた。

この間、さまざまな人に出会い、さまざまな場面を共有し、現在もさまざまな問題や経験に出会い続けている。そして、現在は、ほぼ、毎日のように、なんらかのかたちで、そのこと(障害がある人や、障害にまつわるさまざまな問題)に関わる日常を送るようになった。

その一つの関わりとして、介助者としての関わりがある。

介助者というのは、日常生活に介助を必要とする人のもとで、その人の指示に応じて、その生活をサポートする立場の人のことをいう(ただし、サポートを必要とする人の直接の家族は、ここでいう介助者には含まない)。そこで必要とされることは、介助を必要とする人の身体状況や生活状況、場面などによって異なってはくるが、基本は、「日常生活を送ることのサポート」なので、トイレやお風呂や食事の介助であったり、散歩や買い物、仕事などの外出時の付き添いであったり、着替えや寝返りであったり、鼻のあたまをかくことや指示に従ってクロスワードパズルの文字をうめていくことだったり、時には呼吸器を操作することであったりする。日常生活に介助を必要とする人の、ごくあたり前な日々の営みがそこで展開されていく。ごくたんたんと。

私は、現在は、都内のいくつかの障害者自立生活センター(CIL)に介助者として登録をしていて、介助時間数に応じた介助料を受け取っている。といっても、私の場合は、介助をメインの仕事にしている(それによって自分が生活費の多くを得ている)という状況にはなく、非常勤研究員などの他の仕事で生活費を得ながら、ほそぼそと、介助を続けているという状況にある。介助保障制度との兼ね合いから、ホームヘルパーの資格もとったりしたが、特に介助という仕事が、特別な資格を必要とするものだという感覚は持たずにきた。必要不可欠なことだが、特別な専門性を要するものではない、と。そんなある意味で気楽ともいえる関わりを続けているのが、介助者という関わりを続ける今の私の位置だ。

介助に関わりだして何度か、まわりの人から、介助に関わる理由を尋ねられた。もしかして、家族とか、親戚に「障害者」がいたのか、とか、なにか小さい頃の経験に「障害者」と関わることになる契機があったのか、とかいったこと。こうした質問は、介助に出向いた家で、その家の家族から聞かれたこともあった。なぜ、関わるのか、と。

そうした質問を受けるたびに、なにかすわりの悪い、居心地の悪さが私をおそった。質問の裏に、はっきりした理由がないと、普通はそんな大変なことには関わらないよ、という相手の思いが込められているような気もした。それはただの自分の深読みなのかも知れなかったけれど。それでも、なんとなく居心地が悪く、不快になったことが何度かあった。大変なことをやるえらい人とか、自分の過去になにか介助をやるに至る契機があった人なのではないかといった人々のまなざしが、必要以上に介助に意味を見いださないといけない状況をつくっているように思った。その答えを私はもちあわせていないと感じた。

私の場合は、障害ということについてほぼ全く関わりがなかった大学時代に、とてもおもしろい女性に出会って、その人が、脳性マヒという障害をもつ人だったこと、さらにその人が、青い芝の会という障害者運動の草分けのグループに、深く関わっていた人だったことがきっかけで、その後、当時はまったく知らなかった日本での障害者運動のことを知りたいと思い、いろいろと調べることになったり、日常生活に介助を必要とする人の介助に関わるようになったりしたという経過があった。

ただ、その後、介助を続けるなかで、私は、自分の家族のなかには、自分が幼かった頃、たまたま介助を必要とする人がいなかった、ということでしかないことにも思い当たった。あたり前だけれど、家族のなかに「障害者」がいる人が、家以外の場所で、障害がある人の介助に関わらなければならないわけでも、関わってはいけないわけでもない。さらに、私の幼かった頃や中学・高校といった時期に、私自身、障害がある人と関わりがあったことも思い返せた。そうした経験が、自分がいま、介助をすることに直接つながった経験だとは思わないが、過去の経験と、今の自分の在り方を、まったく切り離してしまわなくてもいいかなとは思ってはいる。

私は、障害がある人と関わることに特別な理由はいらないと思う。ただ、例えば介助を必要として日常生活を送っている人がいるという現実を知った人は、誰でも、必要な介助を担うことができる関係であればいいと思う。まずは、そうした現実が知られていないということがあり、特に24時間介助を必要とするような「重度障害者」とされる人が、そのへんで、つまり地域で、一人暮らしをしているということは、今もなお、あまりよく知られているとはいえず、知られたとしても、その事実をそのまま受け止められる状況にもないというのが現実だろう。

現在では、介助保障制度やそれに関連したヘルパー資格等との関係で、気軽に介助に関わることがむずかしくなってきているということもまた事実だと思いながらも、まずは、多くの人が、関わりをはじめることが、広がればいいのに、という思いはある。

瀬山紀子 (せやま のりこ)
東京大学大学院経済学研究科 特任研究員

2008年5月11日

だめ元とあきらめ (倉本智明)

いまの職場に勤めるようになって10ヶ月が経った。READに拾ってもらうまでは、関西でいくつかの大学の非常勤講師をしたり、研修会や講演会でおばちゃんたちを笑わせたり、時にもち出しの方が上回ってるんじゃないかと思える安原稿を書いたりしながら、なんとか食いつなぐという高学歴ワーキングプアな生活をおくっていた。つぎの振込みがある日までの二日間を380円で過ごさなければならないという、今時中学生にすら過酷と思える財政環境を、40歳を過ぎて経験できるという実に素敵なくらしであった(注1)

しかし、こういう羽目に陥ったとき、障害者であるというのはわりと気楽だ。だめ元の勝負の結果、という開きなおりができるわけだから。健常者だったならもしかすると、あの時別の道を選んでいたらおれの人生はちがったものになっていたかも……、といった悔恨の情にとらわれ、つらくなっていたかもしれない。けれど、障害者の場合、どの道を選ぼうとも、そこにあるのはリスキーな人生なのである(注2)。まっ、こんなもんやろ、と皮肉な笑いですませることも容易だ。

大きな葛籠と小さな葛籠、どちらにしますか?」と尋ねられて、選んだ葛籠に入っていたのが蛇やムカデで、もう一方に入っていたのが金銀財宝だとしたら、そりゃあショックだろう。けども、選ばなかった方の葛籠に入っているのがゾンビであると予想できるとしたらどうか? ショックを受ける人はいないだろうということだ。あ、いや、ジョージ・A・ロメロのファンだったらどうだかわからないけども……。

とはいえ、期待値の低さはやる気をそぐ要因ともなる。どの道を選んでもリターンよりリスクの方がはるかに高いと予想されるような場合、「だったら、だめ元で選びたい道を選ぶ」ではなく、「どの道も選ばない」とか、どうしてもどれかを選ばなければならないということなら「流れに身をまかせる」とか、「適当に選んだけど、最初からやる気ないもんね、おれ」とか、そういった方向に傾くのは当然である。

いまとなっては確かめようもないが、ぼくの場合だって、学問を職業として選んだ時点では単に期待値を読みあやまっていただけのことなのかもしれない。かなり脳天気な性格であるし。ところが現実は甘くなかった。溺れもがいている自分に気づいた瞬間、大あわてで組み立てた調停の装置が、上に記したようなアイロニカルな思考だったとも考えられる。

もしそうだったとしても、そのような装置が現実に駆動し、自分にとっての「自然」(*3)を形成しているのだとしたらなかなかに愉快だ。自由の前に立ちはだかる社会的障壁を問題にすることはもちろん大切なんだけれど、そうした「自然」のダイナミクスにももっと着目していいように思う。障害者はただ disabled (無力化) されただけの存在ではない。もっと能動的に、一見それとはわからないせこくもしたたかな生存戦略を駆使しているのだ。

…とか理屈をこねてるけど、要するに自分のことにしか関心のないただのナルシストなのかもね、おれ。

  1. 過去形で書いてはいるけど、現在のポストは任期つきである。また野良にもどる可能性大であり、そのことをふまえた将来設計に日々悩んでます(涙)。
  2. 障害者の場合/健常者の場合、といった二分法では単純に処理できないことの方が現実には多いのだけれど、とりあえず細かいことは無視してバサッと斬ってみることも大切かも、ということでご容赦ください。
  3. 人工的ではないもの、もうちょっと正確に言うと、「人工的ではないもの」として認識されるもの、といった程度の意味で用いてます。

倉本智明 (くらもと ともあき)
東京大学大学院経済学研究科 特任講師
ウェブページ:
http://www.kurat.jp/