意識される/されない欲求 (坂原樹麗・佐藤崇)
さて,それでは今回はいよいよ「ゴキブリは入っていないコーヒー」の問題に挑んでゆきます.
ここでは前回用いたのと基本的には同じ設定を用います.つまり,「コーヒーは苦い」「オレンジジュースは甘い」「オレンジジュースは苦くない」そして「コーヒーはオレンジジュースではない」という制約によって構成された知識Kをもつエージェントを考えます.
コーヒー|-K苦い,
オレンジジュース|-K甘い,
オレンジジュース,苦い|-K,
コーヒー,オレンジジュース|-K.
ただしこのエージェントは,前回とは異なり「コーヒーが欲しい」という制約
|-DCコーヒー
を含む欲求DCをもつものとします.この制約はそして,与えられた2つの選択肢を比較することで喚起された欲求であるものとします.
この欲求DCには更にもう1つ「ゴキブリは入っていない方がよい」という制約が含まれるものとします.つまり,
|-DCゴキブリ無し
という制約です.この制約は,先の制約とは異なり,特に「ゴキブリ」と関わるタイプが示されることで意識される欲求であるとします.そして,それぞれの欲求において意識されている制約を明示するため,ここでは,意識に上っている制約に含まれるタイプを欲求の後に「|」を挟んで示すことにします.たとえば,欲求DCに含まれる制約のうち 「ゴキブリは入っていない方がよい」という制約と「コーヒーが欲しい」という制約のみが意識されている場合,この欲求を「DC|コゴ」で表します.
ここでは,更に「ゴキブリ」という言葉に関わる2種類の異なったタイプを区別します.1つは「実際にゴキブリが入っていないことをエージェント自身が確認した」ことを表すタイプで,これを「ゴキブリ無し」で表すことにします(これを「ゴ」と略記することにします).
もう1つは「ゴキブリは入っていない」と説明されていることを表すタイプです.つまり,誰かが「ゴキブリは入っていないとみなしている」ことを表すタイプをここでは,「ゴキブリ無し」と区別して「[ゴキブリ無し]」で表すこととします(これを「[ゴ]」と略記することにします).
たとえば,欲求DCに含まれている
|-DCゴキブリ無し
という制約は,この記法に従うなら,それゆえ「エージェント自身がゴキブリが入っていないことを確認した」ものが欲しいことを表していると考えることができます(つまり,いくら「[ゴキブリ無し]」であることが確認されたとしても,上記の制約が満たされることとは無関係である点に注意してください).
以上で設定が整いました.この設定のもとで,「ゴキブリは入っていないコーヒー」を嫌う行動を説明することができるようになります.具体的に確認してゆきましょう.
問題となる選択問題は,そして,以下のようなものでした.
選択問題1:aとbのどちらが飲みたいですか?
a:オレンジジュース
b:ゴキブリは入っていないコーヒー
これらの選択肢は,前々回確認したとおり,それぞれ以下の観察の対象OaおよびObで表現することができます(ただし,上で説明したように,ゴキブリに関するタイプの書き方を少し変えましたので注意して下さい).
|
|
ここではまず観察の対象 Oaに注目します.観察の対象 Oaが与えられた場合「コーヒーが欲しい」という制約のみが意識に上りますので,欲求は「DC|コ」という形でエージェントに意識されます.そして,この欲求DC|コの対象は以下で与えられます.
|=Cla(DC | コ) | コーヒー |
〈コーヒー〉 | 1 |
このとき,注意の範囲は以下のDaに限られます.
Da = {オレンジジュース,コーヒー}
ところで,知識Kには「コ-ヒーはオレンジジュースではない」という制約が含まれていましたから, 欲求 DC|コ,観察Oaおよび知識Kから,以下の認識の対象CogOa(K | Da)が形成されます.
|=CogOa(K | Da) | オレンジジュース | コーヒー |
〈オレンジジュース〉 | 1 | 0 |
ここから,観察の対象Oaと欲求の対象 Cla(DC|コ)の間には,認識の対象CogOa(K | Da)を媒介したタイプ同一的なチャンネルは形成されないことが確認できます.これは,認識の対象CogOa(K|Da)が「コーヒーではない」トークンのみによって構成されているのに対し,欲求の対象 Cla(DC|コ)が「コーヒーである」トークンのみによって構成されていることによります.
次に,観察の対象Obに注目します.Obが与えられた場合,この観察は「コーヒー」と「[ゴキブリ無し]」というタイプをもちますので,欲求は今度は「DC|コゴ」という形で意識されます. そして,この欲求DC|コゴの対象は以下で与えられます.
|=Cla(DC | コゴ) | コーヒー | ゴキブリ無し |
〈ゴキブリ無しコーヒー〉 | 1 | 1 |
すでに確認したとおり,ここでは観察および欲求の対象にそれぞれゴキブリに関係するタイプが含まれていますので,このときの注意の範囲は以下のDbで与えられます.
Db={コーヒー,[ゴキブリ無し],ゴキブリ無し}
ところで,知識 K はゴキブリに関係する制約を1つも含みません.これはたとえばエージェント自身が 「ゴキブリが入っていないと書かれているからといって 「本当に」ゴキブリが入っていないとは限らないよなぁ」 と考えているものと解釈することができます.つまり,「[ゴキブリ無し]」であることがわかっていても 「ゴキブリ無し」であるとは限らない,とこのエージェントは考えているのです.以上より,欲求 DC|コゴ,観察Obおよび知識Kから,以下の認識の対象 CogOb(K|Db)が形成されることが分かります.
|=CogOa(K | Da) | コーヒー | [ゴキブリ無し] | ゴキブリ無し |
〈[ゴ]ゴコ〉 | 1 | 1 | 1 |
〈[ゴ]非ゴコ〉 | 1 | 1 | 0 |
ここから,観察の対象Oaと欲求の対象Cla(DC | コゴ)の間には,認識の対象CogOa(K|Da)を媒介したタイプ同一的なチャンネルは形成されないことが確認できます.これは,欲求の対象Cla(DC | コゴ)が「ゴキブリが入っていない」ことが確認されたトークンのみによって構成されているにもかかわらず,認識の対象CogOa(K|Da)にはそのことが確認できないトークンが含まれてしまっていることによります.
さて,困りました.どちらの選択肢も,ここで考えた「(ゴキブリは入っていない)コーヒーが欲しい」という欲求を満たしてはくれないようです.というのも,選択肢aはコーヒーではありませんし, bは(ゴキブリは入っていない)といういわば暗黙の前提を満たしているのかどうか確信がもてないからです.
こんなとき,わたしたちはいったいどうやって選択肢を絞り込んでいるでしょうか?サイコロを振るのもよいかもしれませんし,誰かに決めてもらうのもよいかもしれません.この場合にはしかし,もう少しよい方法があるように思えます.つまり,欲求をある程度諦めることで選択肢の間に差をつけられるようになる場合があるからです.このような対処策をわたしたちは,そして「欲求の段階」という構造を導入することで表現します.次回は,この「欲求の段階」がどのように機能し,どうやってこの問題を解決することになるか検討してゆきたいと思います.
○坂原樹麗 (さかはら きり)
東京大学大学院経済学研究科 特任研究員
○佐藤崇 (さとう たかし)
東京大学大学院経済学研究科 特任研究員