REASE 公開講座

2016年7月16日

REASE 公開講座

チラシはこちら (PDF)

「合理的配慮―対話を開く,対話が拓く」

7月16日(土曜日)、東京大学本郷キャンパスにて公開講座「合理的配慮―対話を開く,対話が拓く」を開催しました。
“7月16日公開講座 会場風景"

関連書籍
合理的配慮 -- 対話を開く,対話が拓く 「思いやり」の社会を超えて
 川島聡 (岡山理科大学准教授),飯野由里子 (東京大学研究員),西倉実季 (和歌山大学准教授),星加良司 (東京大学講師)/著 有斐閣

内容は下記のとおりです。

公開講座の趣旨
 2016年7月16日に開催される今回の公開講座では、同年4月1日に施行されたばかりの障害者差別解消法と改正障害者雇用促進法に定める合理的配慮を取り上げます。法施行後、合理的配慮に対する関心はますます高まってきていますが、合理的配慮とは何であり、合理的配慮がどのような意義と限界があるのか、必ずしも明らかであるとはいえません。この公開講座を通じて、学際的な観点から合理的配慮の意義、限界、可能性を明らかにしたいとおもいます。
 講演者は、2016年7月刊行予定の『合理的配慮―対話を開く,対話が拓く』(有斐閣)の共著者である、川島聡さん(法学)、飯野由里子さん(ジェンダー/セクシュアリティ研究)、西倉実季さん(社会学)、星加良司さん(社会学)です。また当日は、この4人の講演内容に関して、近藤武夫さん(人間支援工学)と川越敏司さん(経済学)から指定発言をしていただきます。

日時 2016年7月16日(土)午後1時30分〜5時30分(開場午後1時)
会場 東京大学本郷キャンパス 経済学研究科棟地下1階 第一教室
入場料:無料
主催:社会的障害の経済理論・実証研究(REASE)(研究代表者:松井彰彦(東京大学))

情報保障:手話通訳、文字通訳、磁気ループ

プログラム
司会者・研究代表者:松井 彰彦(東京大学大学院経済学研究科・教授)
“7月16日公開講座 松井彰彦"
第1講演
「合理的配慮とは何か」
 川島 聡(岡山理科大学総合情報学部社会情報学科・准教授)
“7月16日公開講座 川島聡"
発表資料 : PDF(1.3MB) 7/12 更新 / TEXT(10KB) / TEXT Shift-JIS(4KB)
第2講演
「合理的配慮は社会を「歪める」のか?」
 星加 良司(東京大学大学院教育学研究科附属バリアフリー教育開発研究センター・専任講師)
“7月16日公開講座 星加良司"
発表資料 : TEXT(12KB) / TEXT Shift-JIS(4KB)
第3講演
「合理的配慮とプライバシーの問題」
 西倉 実季(和歌山大学教育学部・准教授)
“7月16日公開講座 西倉実季"
発表資料 : PowerPoint(129KB) / TEXT(11KB) / TEXT Shift-JIS(4KB)
第4講演
「多様性を踏まえた合理的配慮に向けて」
 飯野 由里子(東京大学大学院教育学研究科附属バリアフリー教育開発研究センター・特任研究員)
“7月16日公開講座 飯野由里子"
発表資料 : PowerPoint(57KB) / TEXT(9KB) / TEXT Shift-JIS(9KB)
指定発言1
 近藤 武夫(東京大学先端科学技術研究センター・准教授)
“7月16日公開講座 近藤武夫"
指定発言2
 川越 敏司(公立はこだて未来大学システム情報科学部複雑系知能学科・教授)
“7月16日公開講座 川越敏司"/
指定発言1・2への応答
“7月16日公開講座 "
全体討論
“7月16日公開講座 全体討論"
科学研究費基盤研究(S):社会的障害の経済理論・実証研究 研究代表者 松井彰彦
質問・コメントカードへの回答 1 飯野由里子(8月10日更新)
質問・コメントカードへの回答 2 星加良司(8月10日更新)
質問・コメントカードへの回答 3 西倉実季(8月18日更新)
質問・コメントカードへの回答 4 川島聡(10月11日更新)

点字毎日2016年8月7日 二つの「ひらく」対話にスポット 合理的配慮を考える 東京大学が公開講座

お問合せ:rease@e.u-tokyo.ac.jp

2016年8月10日

質問・コメントカードへの回答 1

飯野由里子

飯野由里子「多様性を踏まえた合理的配慮に向けて」へ当日寄せられた質問・コメントへの飯野先生の回答です。

○ Q1
CIL内(同性介助原則)で女性介助者が同性愛者であることを開示しないよう事業主に求められた事例がありますが、これは正当なのでしょうか? 何を根拠に交渉すればよいのか・・・
当事者でも介助者でも隠すことが主流の社会ではいつまでもLGBT(A)のグループが出てこられず、彼らのニーズに基づいた変革(イギリスのRegardの「スーの法」のような)も中々実現できないとヤキモキします。
● A
誰に、どこで、どのようなかたちでカミングアウトを行うのか(あるいは、行わないのか)の決定にあたっては、性的マイノリティ本人の意思が尊重されるべきです。したがって、事業主が従業員(この事例では、介助者)にカミングアウトしないよう要請することは、不適切だと考えます。同様に、カミングアウトするよう要請することも、不適切です。
 いただいた事例から察するに、事業主側は、同性愛者である女性介助者が女性障害者に介助を行うことが、何らかの意味で「同性介助原則」に抵触する可能性があると考えたのでしょうか? もしかするとこの事業主は、同性愛とトランスジェンダー、同性愛と性同一性障害(近年では、「性別違和」ということばが、より一般的に用いられます)を混同していたのでしょうか? もし、そうであるなら、事業主側の無知・誤解・偏見が問題になります。
 また、従業員(この事例では、介助者)が職場内(この事例では、事業所内)でカミングアウトしているからといって、そのこと(従業員の性的アイデンティティに関する情報)を、本人に確認することなく、利用者等に伝えることは、「アウティング」(曝し)であり、基本的には「あってはならないこと」です。余談ではありますが、これは重要な点であり、また、ある大学で痛ましい事件が起きたばかりなので、付け加えておきます。
○ Q2
講演の最後の方に出てきた「障害者の声を潜在的なニーズとして受けとめる構えの必要性」や、「聞くことのできる以上のものを聞く」というお話は、西倉実季先生との話とも関連すると思うのですが、「対話そのものの困難」という風に感じられました。
具体的に申し出が難しいマイノリティの人々との対話を実現させるために、どのような態度や実践がありうるか、マニュアル化はできないと思いますが、例をいくつかお話いただければと思います。よろしくおねがいします。
(そもそも対話が万能ではない、という風に個人的には感じられました。だとすれば、どのようなコミュニケーションがありえるのか、ご意見をききたいです。)
● A
「聞くことのできる以上のものを聞く」というフレーズはわかりにくかったかもしれないので少し補足しておきます。わたしが言いたかったのは、健常性中心主義や能力主義等により、わたしも含め多くの人びとは、障害者の主張や障害者の声を聞くことができていないのではないかということです。「聞こえていても、受けとめることができない/理解することができない」と言ってもよいかもしれません。
 自らの「聞く」という行為が、実は構造的に限界づけられているのだということに気づき、その上で、そうした状況を変化させていくために自分に何ができるのかを問う。申し出が困難な状況に置かれている障害者の主張や声が「聞き届けられる」環境をつくっていくためには、そうした取組も重要なのではないかとわたしは考えています。それを、公開講座の場では、「聞くことのできる以上のものを聞く」というフレーズで表現しました。
○ Q3
スライド7のディコーディングについて、詳しく教えていただけないでしょうか。
● A
「ディコーディング」とは、文字どおり、送り手が発したメッセージ(記号・情報)の意味を、受け手が読み解く過程のことです。わたしが「ディコーディング」ということばを用いたときにイメージしていたのは、障害者が「どうすればよいのかよくわからないけど、なんとなく困っている」というメッセージを何らかのかたちで発したときに、受け手の側が「じゃあ、わかったら教えてね(教えてくれればなんとかするから)」と返すのではなく、「何に困っているのかな。どういうときに困ってしまうのかな」と想像することで、障害者からのメッセージを能動的に解釈していこうとする行為です。
 もちろん、こうした行為は、「パターナリスティック」な側面も含んでいるので、無害ではありません。しかし、さまざまな理由から明確な申出をし難い状況に置かれている障害者もたくさんいるだろうということを考えると、こうした「ディコーディング」作業も、とりわけ配慮を提供する側である事業者・事業主には必要になってくるのではないかと考えます。
○ Q4
介助者の持つ様々な特性とのマッチングの問題は、DPI女性会議女性ネットワークの皆さんからの指摘で、私も以前気づかされたところです。
手話通訳でも似た問題があって、LGBTの人たちは、やはりLGBTの手話通訳に通訳してもらうことを望んでいます。また男性が男性の人に通訳をしてもらいたいということもありますが、男性の通訳は圧倒的に数が少ないため、手話通訳技能のレベル、ジェンダーの別、その他様々な条件の中で、妥協できるところで、通訳をお願いしているのが現実です。こうした介助者や通訳者の持つ様々な条件の間でのバランス計算を当事者は行っているのだということを考えることも大事なことかと思います。
● A
合理的配慮の法制化により、事業者・事業主に求められるのは「妥協できるところで」(=さまざまな条件を照らし合わせた上で可能な範囲で)配慮提供を行うということだと理解しています。
 と同時に、なぜ障害者の側からそのような(たとえば、「LGBTの手話通訳者に通訳してほしい」)要望が出てくるのか? そこに表れているニーズとは何か? といった点についても、わたしたちはきちんと考えていくべきでしょう。この点については、Q5に対する応答をご覧下さい。
○ Q5
「(自分と同様に)同性愛の介助者に支援されたい」という要求と、「homophobic でない介助者に支援されたい」という要求とは、果たして同カテゴリなのでしょうか? 後者が、「(保守的でなく)革新的な介護者に・・・」や「(東洋的でなく)西洋的な人に・・・」という、思想や人格に関して介助者を指定する要求の一例であるとすれば、セクシュアリティに関する思想、人格のみを殊更優先するのには何らかの正当化が必要ではないでしょうか? (もし、上に挙げた政治的価値観に関しての要求も含めて「合理的配慮」に含めるべきだ、というのであれば別ですが)
● A
Q4とも関連しますが、「自分と同じアイデンティティをもった人に介助を受けたい」という要望は、いったい何を求めているのでしょうか? それは、介助や支援を受ける場面で「自分の存在が否定されたくない」、「不要なハラスメントを避けたい」という切実な思いからなされた要望なのではないでしょうか? もしそうだとするならば、かれらの主張はすでに十分に正当なものであると、わたしは考えます。むしろ、介助や支援の場で繰り返されて来たさまざまなハラスメント/差別行為/存在の否定に気づかない側の、あるいは、気づいているのにあらためようとしない側の説明責任が問われるのではないでしょうか?
○ Q6
「黙らせる力」について、もう少しくわしく知りたいです
● A
「黙らせる力」には、さまざまなものがあります。この場でそれらすべてについて説明することはできませんが、典型的なものとして、本書の中で触れたのは、健常性中心主義や能力主義、性差別や人種差別、異性愛規範などです。これらの「力」により、障害者は語ることが難しい状況に置かれ続けてきただけではなく、自分の語りを聞いてもらうために、自分の語りの正当性を提示しなければいけない状況に置かれ続けています。しかし、この正当性こそ、先にあげたさまざまな「力」によって台無しにされ続けてきたものなのです。ですから、合理的配慮の内容を特定する場面で、配慮を求めている障害者に対し「正当な」説明を求める前に、聞く側/受け取る側がやるべきこと/やらなければならないことがあるはずです。Q2に対する応答で述べた、「聞くことのできる以上のものを聞く」という取組はその一例です。
○ Q7
「合理的配慮において必要とされる対話」、とても興味深く拝聴いたしました。
この「合理的配慮において必要とされる対話」=共生の技法と、いわゆる熟語やケア倫理との異同について、可能な範囲でお示しいただければ幸いです。
● A
直感的には「合理的配慮において必要とされる対話」と「ケアの倫理」は「異なり」の方が多いように思いますが、これはきちんと考えたことのない論点でした。今後の課題とさせていただきます。
○ Q8
対立的・対抗的コミュニケーションとは別のコミュニケーション方法を身につけることを自分自身で実現しにくい障害特性(ある種の精神障害)の場合の支援の方法あるいは支援の仕組みについて、お考えがあれば教えて下さい。
● A
Q2Q3に対する応答をお読みください。
○ Q9
申し出ができないでいる障害者から学ぶという事に関して、これまでにも社会のいろんな場面で“マジョリティがマイノリティの「声なき声をきく」プロジェクト”に類するものがあったと思いますが、それの含む、これまでにわかっている危うさ、などについてお聞かせ下さい。
● A
Q3に対する応答をお読みください。
○ Q10
「配慮の申し出」をめぐる課題について、質問です。
ニーズの表明が難しい当事者(特に、申し出できるようにエンパワメントしてもどうしようもない子どもなど)を支援する仕事をしています。その際、どうしても当事者のニーズの代弁をすることが多くなりますが、時に独善的、偽善的になりやすかったり、そうでなくてもそのように批判されることもあります。代弁者でありつつ、対話の相手でありつつ、でも自分は「当事者」ではない・・・とき、どこでバランスをとるべきか、考えられるポイントを教えて下さい。
● A
Q2Q3に対する応答をお読みください。
2016年8月10日

質問・コメントカードへの回答 2

星加良司

星加良司「合理的配慮は社会を「歪める」のか?」へ当日寄せられた質問・コメントへの星加先生の回答です。

○ Q1
コスト-ベネフィットに関して、事業者側の損得については実施してみないとわからない。
つまり、機会を平等にの視点で、一度は義務として雇用する。その結果に応じてコスト高になれば、社会全体で負担をする(税?)方式にするのはどうか。
● A
私自身は、基本的にその方式が望ましいと考えています。税を財源とする場合でも、必要額の申請に基づいて補助金を支給する方式や、配慮実施の実績に応じて税控除を行う方式など、幾つかのやり方が考えられますので、具体的な方法については議論を要します。ただ、どんな方法を採るにせよ、税を財源とする公的支出に対して社会的な合意が得られるのであれば、それが最も理にかなった方法だろうと考えています。
○ Q2
試験における「非本質的」要素の排除について
たとえば、低血圧なので午前中の試験を午後に受けることができれば、より自分の能力をより純化した形で測れるということで、午後に受験することは合理的配慮と言えるのか?
● A
基本的に、そうした対応は典型的な合理的配慮の一例だと考えます。例外として、そこで測定されようとしている能力が朝発揮できなければ意味をなさないような能力である場合には、午前中の試験時間を変更することが「本質」に抵触してしまうことになるかもしれません。また、他の人と試験時間をずらすことで、試験問題の秘密保持ができなくなるといった事態が避けられない場合には、「過重負担」を伴うものと判断されるかもしれません。ただ、こうした例外的なケースにおいても、そうした配慮が不可能なのかを十分に検討し、本当にできない場合にはその理由を示すことが、提供者側には求められることになります。
○ Q3
合理的配慮はどんなものがあるのかを知る人が少なく、自分が勉強していないと提案できない場合が多い。
コストがかかるからできないと言われた場合、どう返せばよいでしょうか。
(視・聴覚の情報系)
● A
まず、原則として、「コストがかかる」というのは、配慮を提供しなくてよい理由にはなりません。あくまでも、かかるコストが「過重」なものかどうかがポイントですので、その点は提供者側にきちんと説明していただければと思います。その上で、配慮に関する知識が乏しい提供者においては、先入観として「過重」なコストがかかると思いこんでいることが多いですから、配慮を申し出る側がある程度の知識を持って選択肢を伝えることが有効な場合もあります。必要に応じて、「日本学生支援機構」(大学)や「高齢・障害・求職者雇用支援機構」(企業)等をはじめとして、配慮の具体的な方法に関する情報も参考にしつつ、交渉材料を用意しておくとよいかもしれません。
○ Q4
星加先生のお話を拝聴するのは、昨秋の学内の講義科目以来で、私は今回の法施行・改正について先生がどのような考えをお持ちでいらっしゃるのか、この会を心待ちにしておりました。「能力主義」「経済活動の自由」「第三者負担」との関係を軸にしながら様々な観点で「合理的配慮」の理論から導きうる思考をお話いただき、私の知的好奇心が満たされていくのを感じるとともに、生活上の実際的な武器を手にしたと思います。というのも、自身、手帳を所持して就労しておりますが、そこで日々感じるのは(当たり前なことだと思われますが)、企業、業界、業種によって求められる能力、評価の軸というのが、数値化不能なあいまいなものとなっている場合が少なくないということです。これはもちろん全労働者においていえる、社会全体の問題であるような気もするのですが、そのような場合、経験上、または現行社会の慣習上、マイノリティにおいて顕著であることが多いということも言えると思います。
一般的に高度な認知的処理能力や対人関係能力が要求されていますが、私が目下考えているのは、就業における社会通念との関係です。例えば、会社外の人間と、会社の顔として接する営業職などは、第一印象として「安心」できる感覚情報を与えられるということも重要になってくるように思われます。そのような社会通念上、共有されている「能力」について、先生はどのようにお考えでしょうか?
● A
こうした「能力」に対する社会的な需要が実際にある以上、それらを「本質的な能力」(すなわち合理的配慮による補正の対象とならないもの)とみなさざるをえない場合があることは、確かだと思います。そして、そうした曖昧で漠然とした「能力」の保有と発揮が求められてしまうことで、障害者がますます労働市場から排除されてしまうという事態が起こりうることも、ご懸念のとおりだと思います。では、それに対する処方箋をどう描くかということについては、まずはそうした「本質的な能力」の解釈における過剰な拡張と乱用をチェックし、歯止めをかけるということだと思いますが、さらに長期的な社会的課題としては、そうした「安心」をかなり同質性の高い関係においてしか得られないと感じている社会通念そのものを変容させていく、という可能性についても考えるべきではないかと思います。
○ Q5
経済合理性 rationality についてのお話ですが、合理的配慮の提供を求める個別の場面について、障害者の相手の側が rationality 以外の理由を出してくるものでしょうか?
大体が経済合理性(に還元される)理由づけとロジックの話しあいになってしまいそうに思えてしまうのですが・・・。
● A
配慮をめぐる対話において、提供を求められた側(とりわけ民間企業)が経済合理性を軸に自らの事情を主張することは、ある程度やむをえないことかもしれません。ただし、今回の法整備によって、そうした経済合理性に依拠した理由付けのみによって障害者からの配慮要求を断ることは、原則としてできなくなりました。法施行後、役所や学校、企業等に求められているのは、仮に経済合理性に反するとしても「非過重」な範囲であれば配慮を提供せよ、また「過重」である場合には、「非過重」な範囲内で障害者のニーズを満たせる別の方法を検討せよ、ということです。その意味で、「合理的配慮」の基準となる合理性(reasonableness)が、経済合理性とは全く別のロジックを要求するものだということを押さえておいていただければと思います。
○ Q6
氏が述べられていらっしゃる通り「『(健常者中心の)社会において有用な能力』への偏り」があり、また、あらゆる社会システムはそのように出来上がっております。特に企業及び職場ではそのことが顕著です。
従って、たとえ「評価軸」が同等、公正なものであっても、評価の結果として、健常者と障害者間で「能力の差」というものが生じうる可能性は大と考えねばならないかもしれません。
そのように考えると、我々はやはり、健常者、障害者に対して、二重の評価軸(ダブル・スタンダード)を今後も持つべきなのでしょうか。(特にこの質問は、職場での人事考課の場合を想定しています)
● A
この問題は、とりわけ日本のように差別禁止法制と割当雇用制度を併用している社会では、考えておかなければならない課題です。非常に大きなテーマですので、ここで包括的なお答えをすることはできないのですが、障害者雇用が有している実質的な平等化機能を踏まえると、少なくとも現段階では、ある程度のダブル・スタンダードを残した運用は必要であろうと考えています。その上で2点注記しますと、(1)現行の職場環境においては過剰なダブル・スタンダード(障害者の能力発揮の可能性とその方法を探求することなく安易に別枠での処遇を行うこと)が多く、その点は是正されるべきだということ、(2)個としての労働者の生産性のみならず、人材の多様性が組織全体に与える影響をも組み込んだ人事考課制度の導入を含め、一般的な(健常者向けとされている)評価基準そのものを見直してダブル・スタンダードを解消する可能性についても視野に入れる必要があること、は指摘できるかと思います。
2016年8月18日

質問・コメントカードへの回答 3

西倉実季

西倉実季「合理的配慮とプライバシーの問題」へ当日寄せられた質問・コメントへの西倉先生の回答です。

たくさんのご意見・ご質問をありがとうございました。まず、用語の使い分けが正確に伝わらなかったようなのですが、「障害の開示」とは、合理的配慮を申し出るにあたって、雇用場面であれば事業主などの限られた立場の人に「自分に障害があることを知らせる」という意味で使っています。つまり、障害の開示は合理的配慮の申出段階での問題であり、これに対してプライバシーは合理的配慮の提供段階で浮上する問題です。
次に、私自身も、障害を開示しても不利益を被らない社会をめざさなければならないと考えています。これについては、発表の前半部分で精神障害者の就労の事例を取り上げ、障害を開示して働ける社会環境の整備を重要な課題として指摘したとおりです。ただ、そうした社会が必要なのは明らかだとしても、障害に関するプライバシーをめぐっては、やはり個人の意向が尊重されなければならない、というのが私の基本的な主張です。「アクセスとプライバシーの緊張関係」は、障害を開示して合理的配慮を要求できる社会への志向はむしろ前提に、「その先の問題」として検討しています。
企業や学校等でのモデル事例の紹介など、現在の私の知識では対応できないものもあり、十分ではないかと思いますが、当日は時間の関係で取り上げられなかったご質問に回答いたします。
○ Q1
障害を開示することにより、プライバシーの侵害に相当することは理解できます。しかし、配慮を求めるならば、そのような試練(?)もやむを得ないのではないでしょうか。むしろそのようなスティグマを改善できる環境を構築することを目指すことも一つの方策だと思いました。
追伸:私も障害者です。
● A
 冒頭で述べたように、障害の開示は合理的配慮の申出段階の問題であり、それがプライバシーの侵害に直結するわけではありません。雇用場面であれば、合理的配慮に関する相談を受けた事業主は、その情報の取り扱いに留意することが求められており、事業主に開示したからといってそれ以外の人たちにも知られるわけではありません。
 同じく冒頭で述べたように、障害を開示してもスティグマを付与されない社会環境をめざす必要があるとのご指摘には賛同します。配慮提供段階での「アクセスとプライバシーの緊張関係」は、そのうえで考えなければならない問題として検討しました。
 配慮を求める以上、プライバシーの侵害は甘んじて受け入れなければならない、という考え方には、少なくとも以下2つの問題があると考えます。ひとつは、この場合の「配慮」が(合理的配慮の条件であるはずの)「社会的障壁の除去」という要素をまったく満たしていないことです。プライバシーと引き換えにされることで配慮を受けるのを躊躇してしまうとしたら、それは障害者が社会生活を営むうえでの障壁を除去しているとは到底言えません。もうひとつは、障害の顕在化やスポットライト化が起こらないような、もっと適切な配慮提供のやり方がありえるかもしれないのに、それを検討する可能性を閉ざしてしまうことです。もちろん、私が「合理的配慮のジレンマ」として問題化したように、どれほど適切に配慮を提供しようとも、プライバシーの問題が引き起こされてしまう場面はあるわけですが、適切な方法をとることで回避できる問題までもが放置されることになってしまいます。
○ Q2
合理的配慮の申出および提供によって、障害の顕在化、焦点化が生じるという問題、またプライバシーの擁護が同時に大切、というお話がありました。しかし、障害があること、合理的配慮を必要としていることが他者に知られることを良しとせず、隠さねばならない社会であること、そのことこそが問題なのではないかと考えます。
今回の法制定、改正は、合理的配慮を提供する機関、組織が増え、また提供される人々が増えることで、障害があるということが特別視されない社会になっていくのではないか、という点で意義深いと考えます。この点どうお考えでしょうか。
● A
 冒頭で述べたように、障害を開示できないことで合理的配慮を申し出られず、障害者が不利益を被っている現状を考えれば、「隠さねばならない社会であること」こそが問題なのではないかとのご指摘はそのとおりです。そのうえで、啓発などの方法で障害を開示できる社会をめざすことと、障害があることや合理的配慮を必要としていることを「人に知られたくない」という意向を尊重することは、決して矛盾しないと私は考えています。実際、事業者・事業主に障害を開示して合理的配慮を申し出ている障害者が、自分に障害があることや合理的配慮を受けていることを「(事業者・事業主以外の)人に知られたくない」と思うことは十分にありうるのではないでしょうか。
 合理的配慮の申出段階でのスティグマにしても、提供段階での「アクセスとプライバシーの緊張関係」にしても、法律の施行をゴールと見なしていたら見落としてしまう問題なのではないか。私が問題提起したかったのはこのことでした。
○ Q3
「「感受されるスティグマ」が啓発によって解決されない」ということについてもう少し詳しく教えて下さい。啓発によって「差別を受けることはない」という事例が定着していれば、徐々に不安は解消されていくような気がするのですが、時間がかかるという意味でしょうか?
● A
「感受されるスティグマ」とは、たとえば「障害のことを知られたら差別されるかもしれない」「人に知られたくない」というような恐怖心や羞恥の感情を含むものです。ご指摘のとおり、啓発と感受されるスティグマは無関係ではなく、啓発が進み、障害者が「障害を開示しても差別を受けることはない」と思える社会環境が整っていけば、感受されるスティグマもまた軽減していくのかもしれません。ただ、どれほど啓発が進んだとしても、「差別されるかもしれない」という個々の障害者の恐怖心が完全になくなるわけではないでしょうし、「障害のことは隠しておきたい」という個人の意向は、それ自体、尊重されなければならないと私は考えています。つまり、障害を開示できる社会、開示できるための支援だけが追求するべき答えではないと思うのです。
「法律ができて、これだけ啓発も進んでいるのだから、障害を開示することはできるはずだ(開示できないとすれば本人の問題だ)」という見方に陥らないためにも、そしていまだ表明されていないニーズの存在を見落とさないためにも、差別禁止アプローチでは解決されない問題に注意を向けることは重要だと考えています。この点について、私は顔にあざのある女性たちへのインタビュー調査から多くを学びました。
○ Q4
「感受されるスティグマ」と「行使されるスティグマ」を啓発の有効性の観点から区別されていますが、それはどちらに有効無効というものではないのではないでしょうか?
感受は「当事者」の意識、行使は「当事者」への行為と考えられます。しかし、感受されるのは、開示したらスティグマ化されると想像するに足る行為が既に行使されているからである場合が多いのではないでしょうか?
障害者でないことが当然とされ前提となっているのではないか、健常者中心主義や障害者恐怖/嫌悪(ディスアビリティフォビア?)とでもいうべき社会的な構造こそを見直し、脱構築することが必要なのではないでしょうか?
● A
 冒頭でも述べたように、障害を開示しても不利益を被らない社会の構築(いただいたコメントの表現をお借りすれば、健常者中心主義や障害者フォビアな社会構造の見直し、脱構築)は重要な課題であると考えています。「感受されるスティグマ」については、そのうえで考えなければならない問題として扱っています。
 感受されるスティグマが生起するのは、「開示したらスティグマ化されると想像するに足る行為が既に行使されているから」というご指摘はある程度正しいとは思いますが、それだけが理由ではありません。この点に関しては、Q3に対する回答で述べました。また、感受されるスティグマが差別禁止アプローチでは解決されない問題を含んでいることについてもQ3の回答の中でふれています。
○ Q5
聴覚障害学生への支援を事例にとりあげていらっしゃいましたが、聴覚障害学生とりわけ、支援を受けた経験のない人は、「感受されるスティグマ」に対して敏感な傾向が強いと思います。その原因の1つとして、障害に対するアイデンティティがまだ途上発展段階であることも考えられます。プライバシーを尊重しつつ、聴覚障害学生が自らの障害に対する認識を深め、ロールモデルとの出会いなどを通して、アイデンティティを確立させた上で、主体的にアクセスかプライバシーかの選択ができることがジレンマの解決にあたって一番肝心なことだと思いました。
● A
自らのニーズを正当なものとして捉え直し、それを表明していくこと。これらの実現にあたって、たとえばピア・カウンセリングによるアイデンティティ形成やロールモデルとの出会いが重要な役割を果たしてきたことは、障害当事者の運動からも学ぶことができると思います。この意味で、ご指摘のように「感受されるスティグマ」には本人のアイデンティティの問題も関係しているのかもしれません。ただ、公開講座の場で私がお話ししたのは、アクセスの確保かプライバシーの擁護か、たとえ主体的に選択できたとしても、一方を選べば他方は十全には保障されないという意味でのジレンマについてです。この問題は、選択の主体性によっては解決されない問題であると考えています。自己選択の重要性を否定するわけではありませんが、そこにジレンマの解決策を求めることは、障害の顕在化やスポットライト化が起きたときに、「障害者本人の主体的な選択の結果だから仕方がない」という見方を招いてしまう危険性もあるのではないでしょうか。
○ Q6
「障害の開示」において、理想としては「障害名の開示」ではなく「困っている状況の開示(誰もが開示しやすくなること)」となると開示しやすくなるように思いますが、現状それを妨げているものは何か、どうしたら解決できると考えられていますか?
● A
 ご指摘のように、必ずしも「障害名の開示」がなくても「困っている状況の開示」があれば、配慮が提供されるという場面は現実には多くあるかもしれません。ですが、法律の言う「合理的配慮」は、あくまでも法律が定める「障害者」に提供されるものなので、配慮を要求している人が障害者かどうか(インペアメントのある人かどうか)の確認はどうしても必要になってきます(たとえば、障害者手帳や医師の診断書を提出するなど)。
 一方で、「障害名の開示」ではなく「困っている状況の開示」であれば誰もが開示がしやすくなるのではないか、とのご意見はたいへん示唆的だと思いました。『合理的配慮――対話を開く、対話が拓く』の第7章では、合理的配慮を提供される必要があるのは誰か、という問いを検討しています。そこでは、インペアメントを持つかどうかを合理的配慮を受けるための要件にしないというアイディアを紹介しています。
○ Q7
スライドの12枚目に「合理的配慮の機能が低下」とあります。御報告では居心地の悪さや気詰まりなどから配慮の受け控えがあるというお話がありましたが、それを「機能低下」と呼んだのでしょうか。
当方が思うにこれは「機能の低下」ではなく、社会的障壁の除去のためにとった手だてが、期待の成果を達成できなかったのにすぎず、合理的配慮の機能が低下したというのは違うと思います。むしろ言うなら、期待した成果を達成するための環境をさらに考えていかないといけないというだけのことではないでしょうか。
● A
ここでの「機能が低下」は、合理的配慮の受け控えではなく、障害の顕在化を避けようと遠隔でのPC通訳を導入した結果、たとえば情報の漏れやタイムラグが生じ、情報を保障するという合理的配慮の機能が低下することをさしています。
「期待した成果を達成するための環境をさらに考えていかないといけない」というのは、ある程度まではそのとおりだと思います。ですが、配慮提供のやり方のまずさからくる問題であれば、方法を改善することによって解決可能ですが、どんなに適切な方法で提供されたとしても生じてしまう問題はあり、それを私は「合理的配慮のジレンマ」と呼んでいます。
○ Q8
「顕在化」が抑制されたままであることによる(本人含む)全体へのマイナスの影響が言及されていないのがとても気になりました。そこで「プライバシー保護」にだけ話が進んでいくことが、「自己イメージの自由」はわかるけど、どうも問題の個人化のようにも思え、違和感があった。
学生を「お客様」として、大学側がひたすらプライバシーを守る…。その先に何があるのだろう。「インペアメントがあることを知られたくない」ままでは、その学生は学生生活の間もその後も生活しにくさを抱えていくはず。
「インペアメントがあることを知られても、不利にならない社会」をめざしている(他の学生、教職員も、社会モデル含めて知識を得ることができる)のが、障害者権利条約/差別解消法ではないのか?もちろん、人の認識はそうそう変わらないし、「感受されるスティグマ」を軽視するわけではない。が、他の人々を教育、啓発する努力や本人のエンパワメントをあきらめ、「はい、プライバシーを守りますよ」と個人に寄り添うふりをしているだけでは?それで「社会活動にアクセスできている」と言えるのか?と思った。「プライバシーが守られている」と安心でしょうか?どうも個人モデル的な個別な話に終始している気がした。
● A
「インペアメントがあることを知られても、不利にならない社会」への志向はむしろ前提に、たとえそうした社会が実現したとしても残る問題を検討していることは、当日の質疑応答を通して理解していただけたと思います。
他の人々を教育・啓発する努力をしていくことが社会モデルにそくした実践で、反対に「障害のことを知られたくない」「プライバシーを守ってほしい」という本人の意向を尊重することは個人モデル的である、という前提を持っておられるようなのですが、はたしてそれは妥当でしょうか。本人の意思に反して障害のことが知られ、心理的安寧が脅かされたり行動が制約されたりするとすれば、「本人の意思に反して障害のことが知られる」ことは障害者が社会生活を営むうえでの社会的障壁になりえます。このように、プライバシーの問題もまた社会モデルを用いて考えることができるはずで、個人の経験に注目しているからといってそれがすなわち個人モデル的であるわけでは決してありません。社会モデル、個人モデルの線引きが、やや恣意的なのではないかと思いました。
この点について私が影響を受けているのは、フェミニスト障害学の論者たちによる社会モデル批判です。たとえばC. トーマスは、身体的差異に対する感情を含んだ個人的な経験にこそ重大なディスアビリティが現れているにもかかわらず、従来の社会モデルはそうした問題を看過してきたことを批判しています。このようなディスアビリティをしっかりと捉えていくためにも、社会モデルの射程を拡大していく必要があるのではないでしょうか。「障害を開示して必要な支援を申し出ること」だけを「望ましい」問題解決の方法とするような社会モデルが、誰の・どのようなニーズを排除してしまうのか、注意深くあらねばならないと私は思います。
2016年10月11日

質問・コメントカードへの回答 4

川島聡

川島聡「合理的配慮とは何か」へ当日寄せられた質問・コメントへの川島先生の回答です。

○ Q1
Reasonableという言葉の意味をより条約に則して説明していただいていると思います。この言葉は、さらに前の米国のADAと権利条約では、意味に違いが生じていますか?もっと云えば、今後、日本でさらに日本的な(独特の)合理的配慮概念が出てくる可能性、あるいはそうした余地はありますか?
● A
日本独特の合理的配慮概念が出てくる可能性があるか現時点ではよくわかりません。ちなみに、権利条約における"reasonable"の意味内容は必ずしも明らかではありません。日本の場合、基本方針や各指針の中で、「合理的配慮」(reasonable accommodation)というかたまりの概念が、ある程度まで明らかになっています。ただし、基本方針や各指針は、「合理的」と「配慮」とを分けて、それぞれが何を意味しているか記していません。
○ Q2
reasonable accommodation の事後的措置としての性格は、確かに米・英の判例などで見られますし、それ自体については異議がありません。しかし、undue hardshipや essential function のようによく明示される観点に比べて、事後的な交渉によって「配慮」の内容を定めていくという性質はそれほど明確に論じられていないように思われます。ドイツ語圏で reasonable accommodation の訳語として使われる angemessenen Vorkehrungen のように、あまり事後性に重きを置いていない解釈も見られるように思います。reasonable accommodationの事後的性格は、どの程度国際的に共有されているのでしょうか?
● A
少なくとも、障害者権利委員会の一般的意見をみると、また日本の基本方針や指針を見ると、権利条約における合理的配慮と、日本の差別解消法・雇用促進法における合理的配慮とは、少なくとも、事後的・個別的な性格を有する、といえると思われます。ドイツの場合は、私は論文を書いたことがなく、詳しく分析したことがないのですが、イギリスの場合は、事後的なものと事前的なものがあります(拙稿「英国平等法における障害差別禁止と日本への示唆」『大原社会問題研究所雑誌』641号(2012)28-43頁)。
○ Q3
意向尊重についてもう少し詳しく
● A
意向尊重については、さまざまな論点があります。たとえば、「職場において支障となっている事情等を改善する合理的配慮に係る措置が複数あるとき、事業主が、障害者との話合いの下、その意向を十分に尊重した上で、より提供しやすい措置を講ずることは差し支えないこと」という合理的配慮指針の指摘が重要ですが、この指摘についても、具体的な事例に基づく検討が必要とおもわれます。いわゆる代読裁判が、意向尊重を考えるうえで重要なひとつの視点を提供しているとおもわれます。川崎和代=井上英夫『代読裁判:声をなくした議員の闘い』(法律文化社、2014年)参照。
○ Q4
本研究の範囲は、学術的に例えば学生が大学における活動(授業や研究 etc)での問題や課題について、を感じ取れますが、そのような認識で合っていますか。大学を出て、社会や企業etc就労上における問題や課題を究明したりすることがあまり見受けられないと思いますが、まだそこまで至ってない状態と思ってよろしいですか。
● A
本研究の範囲(や趣旨・目的)については、『合理的配慮』(有斐閣、2016年)の序章と終章をご覧いただけますと幸いです。
○ Q5
バリアフリー法で定められている基準以上の整備内容(合理的配慮)を障害のある方が求められる時、行政の立場としてどのように対応すべきか悩ましく思っています。機会の制限につながるケースは合理的配慮の不提供(=不当な差別的取扱い)に当たり得るのでしょうか。アドバイスをいただけると有難く思います。
● A
基本的に、なんらかの個別具体的な事案というものを想定せずに、合理的配慮について考える場合には、原則的なレベルの議論にとどまってしまいますが、合理的配慮の提供義務に違反するか否かは、個別具体的な事案ごとに、機会平等や本来業務付随や非過重負担などの要素を総合的・客観的に判断して決せられる、と思われます。
○ Q6
雇用の現場で、過重な負担への価値観、ニーズが障害者側と健常者側が異なる場合、過重の判断基準で雇用者が決定したとしても、障害者側では「配慮がなされなかった」=「ニーズがききとられなかった」という感情を持つことがある。対話としてうまくいかなかった例になるのだろうか?あるいは健常者側の方でもっと落としこんで(本当に差別ではないか、過重だったか、など)つきつめなければならないか。落としどころが見つからない場合の解決策は?
● A
合理的配慮のプロセスでは、建設的対話が重要となります。もっとも、対話のプロセスでうまくいかない場合など、紛争が生じる場合がありえます。二者間での対話は、ときに感情的になって、うまくいかないときもあるかもしれませんが、第3者をたてて対話を進めるなど対話がうまく条件を整えていく必要があるかとおもわれます。
○ Q7
個別へのニーズへの対応というのが合理的配慮の手続きの一つだというお話でしたが、そのためには社会全体が対話的にコミュニケーションができるという前提が必要になるかと思います。対話が苦手な人たちにとって、より生きにくい世の中になるような気がします。この点についてはどうお考えでしょうか。
● A
円滑で効果的な対話をサポートする制度(対話の条件整備)が必要となりますが、それがどのような制度かはまだ分からない部分が多いです。そうした制度を具体的に築いていく際には、諸国の制度から学ぶとともに、当事者の主張を制度に反映していくことが重要とおもわれます。
○ Q8
「過重な負担」の考え方について
事業者と障害者との個別対話の場面では提供可能とされた「合理的配慮」が、対象者が多数になる(人数が増える)ことによって、その配慮提供が困難になることがあると思います。(例:大学で受験の際に別室受験に対応することなど)またそう考えることで、あらかじめ事業者の側が配慮の提供をちゅうちょする事態も出てくるかと思います。こうした場合、この「過重な負担」というものを、どういった視点で考え、整理することができるのでしょうか。
● A
過重負担の有無は、結局のところ、個別具体的な場面ごとに検討する必要があります。そして、基本方針や各指針が示している諸要素に照らして、過重負担の有無を総合的・客観的に検討する必要がある(一面的・抽象的・観念的・一般的に判断してはならない)、ということができます。
○ Q9
私立大学で要約筆記などを準備しないことは努力義務だが、川島さんのお話では「何もせずに放置すると行政指導が入る。」とある。聴障者は具体的にどのような行動を取ればいいですか?
● A
具体的な場面を想定しないとお答えが難しいのですが、行政指導に関しては、以下のような記載があります。
内閣府のQ&Aは、「本法は事業分野を特定せず、包括的に事業者に対して障害者に対する合理的配慮を求めるものであるが、障害者と事業者との関係は事業分野ごとに様々であり、求められる配慮も多種多様であることから、与党WT及び自公民の3党における議論を踏まえ、本法においては、事業者の合理的配慮については努力義務とした上で、例えば、事業者による自主的な改善を期待することが困難である場合などには、実効性の確保の観点から、事案に応じて、事業者の行為の是正を促すことができることとしている。」としています。
 また、内閣府の<国民向け>回答は、次のように記しています。「A. 民間事業者の取組が適切に行われるようにするための仕組みとして、この法律では、同一の民間事業者によって繰り返し障害のある方の権利利益の侵害に当たるような差別が行われ、自主的な改善が期待できない場合などには、その民間事業者の事業を担当する大臣が、民間事業者に対し、報告を求めたり、助言・指導、勧告を行うといった行政措置を行うことができることにしています。」
○ Q10
川越先生の話を聞くと、RAを制度化しなくても、社会的に最適なRA*が達成される気がしますが(ex コースの定理)、そもそもRAが国家の介入という形で制度化された理由はなぜでしょうか?逆にいえば、RA*が達成されない社会的要因を除去するのがRAの意義となるのでしょうか?法学の立場で経済学のロジックに対抗する視座はあるのでしょうか?
● A
『合理的配慮』(有斐閣、2016年)第5章の第3節で、規範的な正当化論のひとつを論じております。もっとも、ここで論じているのは基本的な内容でして、より具体的な検討は今後の課題です。