REASE 公開講座

2014年3月8日

REASE 公開講座のご案内

チラシはこちら (PDF)

東京大学REASE(社会的障害の経済研究)では、引き続き、前身のプロジェクトであるREAD(障害と経済)をさらに発展させるべく、人々の生きにくさに焦点を当てた様々なリサーチ・プログラムを展開しています。今回の公開講座では、REASEのメンバーである川越敏司、星加良司、川島聡が、それぞれの専門分野(経済学、社会学、法学)から、障害とは何か、障害学とは何か、という問いに迫ります。さらに、REASEのメンバーである森壮也、西倉実季、大野更紗が、指定発言者として、それぞれの観点から問題提起をし、フロアーを交えて、発表者とともに、この問いをめぐる議論を深めていきます。この公開講座が、発表者3名が編著者となって上梓した専門書『障害学のリハビリテーション』(生活書院、2013年)の趣旨と内容をいっそう掘り下げる機会となり、学際的な観点から「障害を問い直す」ことにつながればと思います。

公開講座 「障害学のリハビリテーション」とは何か
主催:社会的障害の経済理論・実証研究(REASE)(研究代表者:松井彰彦(東京大学))
日時 2014年3月8日(土)午後1時00分-5時00分(開場12:30)
会場 東京大学経済学研究科棟地下1階 第一教室
情報保障:手話通訳、文字通訳、磁気ループ
入場料:無料
発表者:川越敏司(公立はこだて未来大学)、川島聡(東京大学)、星加良司(東京大学)
指定発言者:森壮也(ジェトロ・アジア経済研究所)、西倉実季(同志社大学)、大野更紗(作家)
司会者:長瀬修(立命館大学)
プログラム
13:00-13:05 松井彰彦「開会の言葉」
13:10-13:40 星加良司「社会モデルの分岐点―実践性は諸刃の剣?」
報告ファイル :TEXT(UTF-8/16KB) / TEXT(Shift-JIS:Windows/16KB) (2月17日改訂版)
13:45-14:15 川越敏司「障害の社会モデルと集団的責任論」
報告ファイル :WORD(12KB) / TEXT(UTF-8/12KB) / TEXT(Shift-JIS:Windows/12KB)
14:15-14:25 休憩
14:25-14:55 川島聡「権利条約時代の障害学―社会モデルを活かし、越える」
報告ファイル :WORD(16KB) / TEXT(UTF-8/12KB) / TEXT(Shift-JIS:Windows/12KB) (2月17日改訂版)
15:00- 指定発言
15:00-15:15 森壮也「『障害学のリハビリテーション』でまだ論じられていないこと」
報告ファイル :TEXT(UTF-8/12KB) / TEXT(Shift-JIS:Windows/12KB) (3月4日改訂版)
15:15-15:30 西倉実季「「未知なる発展可能性をひらく」リハビリテーションのために」
報告ファイル :WORD(25KB) / TEXT(UTF-8/16KB) / TEXT(Shift-JIS:Windows/16KB) (3月4日追加)
15:30-15:45 大野更紗「「医療モデル」を、再び問う―インペアメントから、離れ難き者たちから」
報告ファイル :WORD(20KB) / TEXT(UTF-8/12KB) / TEXT(Shift-JIS:Windows/12KB) (3月6日追加)
15:45-15:55 休憩
15:55-16:55 全体討論
16:55-17:00 松井彰彦「閉会の言葉」

質問・コメントカードへの回答 1 川越敏司(3月12日更新)

質問・コメントカードへの回答 2 森壮也(3月14日更新)

質問・コメントカードへの回答 3 西倉実季(3月31日更新)

質問・コメントカードへの回答 4 川島聡(5月26日加筆)

お問合せ:rease@e.u-tokyo.ac.jp

2014年3月12日

質問・コメントカードへの回答 1

川越敏司

川越敏司「障害の社会モデルと集団的責任論」へ当日寄せられた質問・コメントへの川越の回答です。

○ 障害者就労支援事業者として質問いたします。
アファーマティブ・アクションの効用として、障害者に負けないよう健常者が努力をすることで、会社の経営力があがるとのお話がありました。
就労支援をするなかで、業績が延びている企業ほど、障害者のスキル(特に職業スキル)を多く要求せず、一般常識の習得をメインに求めてこられます。
パート・アルバイトなど非常勤(非正規)職員が増えるなかで、いかに速く、素人を戦力にするかで、会社の業績が 変わることを重要視していて、育成マニュアルが充実しています。また、そのような企業では、外国人労働者の受入れにも積極的です。
上記のような、経営努力の視点からアファーマティブ・アクションの効用を分析された研究がありましたら、ご教授ください。
○ アファーマティブ・アクションのときお話しされたADA法に基づく企業の資料と川越先生の研究されている資料のソースを教えていただきたい。
○ 合理的配慮と経済効果についてもう少し詳しく説明して欲しい。アファーマティブ・アクションは制度・政策的な面があるが個別性をもつ合理的配慮もアファーマティブ・アクションと同じことが言えるのか?
● アファーマティブ・アクションの研究についての参考文献は、本(以下『障害学のリハビリテーション』のこと)に収録された論文をご覧ください。ADA法施行の経済効果については、以前「合理的配慮に関する経済学的分析」という発表をしたことがあり、そこに参考文献が上がっています。
「合理的配慮に関する経済学的分析」PDF(41KB)
○ アファーマティブ・アクションによって不利益を受ける人(例えば障害者雇用によって採用されなかった人など)は、何らかの社会的弱者、またはそれによって社会的弱者になる人である場合が多いのではないかと感じます。
Win-Winの輪の中から結局ははみ出る人が出てくるのではないですか?
全員が「社会」に取り込まれることはむずかしいのでしょうか?
● 採用か不採用かの境界線上に多くの障害者などの社会的弱者が存在することはありえると思います。それでも結論は基本的に変わらないと思います。全員を採用することが理想ですが、当然企業は営利目的で雇用量を決めているので、それを強制することはできません。その制約の中で、アファーマティブ・アクションはないよりもあった方が良い、というのが一連の実験の結論です。
○ プレゼン9の問題設定に関する質問
この設定は二つのステージに分かれることになるはずと思うがどうか?
前半は、車イス利用者がプラットフォームにたどり着いていないという状況について語っている。この利用者はどこにいるという想定なのだろうか 自宅から出ていない、駅まではたどり着いている。プラットフォームを目の前にしているのにもかかわらず、最後のステップの前に、立ち往生している?
また、誰が責任を問うのでしょうか? 車イス利用者が法的責任を問う相手をどこに見出すのかという問いなのでしょうか?
設定を整理した時、法的責任を問うとは違った道筋も見えてくるように思います。
○ 本の例に出されている「駅にエレベーターを」という運動に80年代から関わってきたものとして、当時、日本に障害学はなかったが、まさに「社会に責任がある」と問題をたてて、そのように運動をすすめ東京では結果を得てきた。
その場合の「社会」とは設置者としての鉄道会社であり、監督官庁が代表していて、そこへの抗議を行ってきた。
まず、事実として、それが有効であった。
そして、鉄道会社や監督官庁の決定にかかれる個人の責任も問えるのではないか、と考えているのですが・・・・・。
○ プライベートな社会の中に、私人と法人の両方がスラッと入ってくるのには違和感があります。私人間とその他の民間を分けることはできないのでしょうか?
● 本に書いた論文ではもちろん、鉄道会社などの法人、監督官庁などの行政、たまたま駅に居合わせた人々という私人、このそれぞれの場合に分けて問題を議論しています。いずれの場合も、方法論的個人主義に立った場合、責任を問うことはできないというのが結論になります。
○ 憲法が国家に対し、すべての国民が「健康で文化的な生活を送る権利」を享受できるように配慮することを義務付けている以上、多様な局面において発生する障害者の困難(スロープの欠如等)を取り除く「最終的」責任は国家にあると考えて良いように考えますが、どう思われますでしょうか?
● 憲法が合理的配慮を基礎づけるものと考えることは難しいと思います。
○ 差別解消法で合理的配慮が義務化されたが、行政によっては財が充分でなく、要約筆記派遣に制限が加えられ(4時間/1日、連続講座不可、一週間前に申し込みなど)自由に対して制限が加えられている。
これに対して(行政による制限)、社会モデルはどのように考え、問題解決が可能なのか、社会モデルは行政に対しては無力ではないだろうか。
● 障害の社会モデルは、障害者に対する社会的障壁はどのような原因で発生するかを述べたもので、例えば、行政が障害者に対する十分な配慮を提供しないことに対して、何かを言うことはできないと思います。「何かを言える」(規範的な主張ができるう)と考える人々の考えには矛盾がある、というのがわたしの論文の主張です。
○ 悪人障害者より。
「障害者がまじめに働く」は大きなお世話ですし、まじめだから雇用するという論理では新しい差別を生み出しかねません。
● 「障害者は働かなければならない」といったことは、論文でも講演でも一言も言っていません。
○ 1 能力格差があると全体の平均的な努力水準が上昇するというのは、障害者雇用をしていなくても、みられる現象なのではないか? “集団内の能力差が均一なほど努力水準が下がる”のが事の本質という理解でよいのだろうか?
2 diversityと労働生産性について、日本における実証研究はあるでしょうか?
3 日本におけるaffirmative action(例:障害者雇用年)の現在の水準は、(経済学にみて)社会的最適水準より低いでしょうか?高いでしょうか?
☆障害者雇用はいい仕事がなく大変です・・・
○ アファーマティブ・アクションによる社会的な効率性の増大が、より明確にわかりやすく示されることを期待しています。一般人にとっては目からウロコで、信じがたいことだと思うからです。
● 能力格差があるだけでは、努力水準が上がるか下がるか、どちらになるかはわかりません。そこにアファーマティブ・アクションのような制度が導入されることでどう変わるか?というのが問題になります。議論は色々ありますが、常識に反して(?)、実験研究では努力水準は上がる傾向があると報告されています。日本の障害者雇用の経済効果については、REASEメンバーの長江亮氏がずっと研究されています(上述 「合理的配慮に関する経済学的分析」に参考文献を上げています)。
○ ADAの結論は男性労働社会を前提しているためなのではないのか? これが問題なのではないのか。排除された現社会システムを前提として結論を導くのは不偏性議論からずれているのではないのか? 社会の中には当事者も含まれており、例えば、エレベータの例で言えば、乗客者、鉄道会社、障害者や乗客が働いている会社などを含む社会に責任はあるのではないのか?
民主主義ならびに資本主義は少数のものを如何に満足させるかを考えるのが基本的事項であると私は考えています。
● 「社会の中には当事者も含まれている」ということは、先に「経済学は障害学と対話できるか?」(『障害学研究』第4号収録)でも論じました。この場合、「障害は社会が生み出している」という社会モデルの主張は、「障害は障害者が生み出している」という奇妙な結論を導き出してしまいます。こうした問題を社会モデルは抱えていると考えています。また、障害は結局、民主主義や資本主義によって生み出されているという考えもまた、そうした社会を再生産している人々の中に当事者が含まれている以上、先ほどと同じ奇妙な結論に行きつくと思います。
○ 「実験経済学によれば、アファーマティブアクションによって、社会も障害者も幸せになる」という話は、「そのために、社会(私的な社会関係)を変えるエネルギー、コストをかけるべきだ」という議論に直接的には結びつかないと思いますが、どのように整理されているのでしょうか?
● Win-Winの関係(パレート効率的な結果)があるなら、それが実現されないのは非効率的なので、遅かれ早かれその状態を改善するような動きがみられるはずだと考えられます。経済学における「コースの定理」のように当事者間の直接交渉ということも考えられますし、具体的な方策は色々あると思います。

2014年3月14日

質問・コメントカードへの回答 2

森壮也

森壮也「『障害学のリハビリテーション』でまだ論じられていないこと」へ当日寄せられた質問・コメントへの森の回答です。

○ 「DPI女性障害ネットワーク」はDPI日本会議の中の女性部ではなく、独立したグループです。(たまたま、最初に作った人たちが当時のDPIの理事だったために「DPI」という冠がついているらしいです)
● コメントをありがとうございます。DPIの中にあると当方の報告の中でご紹介してしまいました。ご指摘の通りだと思います。いずれにせよ,日本においてもこうした女性障害者の運動が活発に行われていることを喜びたいと思います。そしてそれが障害学におけるジェンダーの議論にどのような影響を与えているか,またこの皆さんの活動にジェンダー研究や障害学からどういった影響を受けているのかといったことを,改めて整理した論文がぜひ今回のテーマである「障害学のリハビリテーション」にも影響を与えて欲しいと思っております。
○ 輸入される議論が英米に偏っている点は障害学に限らず、医学等にも当てはまるのではないでしょうか。具体的に、日本人が英米以外の国の理論に親しみ、議論に使えるようにするにはどうすればよいでしょうか。
● 質問をありがとうございます。
英米の理論は,英語で書かれていることもあり,研究者のマジョリティがそれに触れていることが,私たちが,そうしたものに馴染んでいる理由だと思います。また翻訳による紹介も両国の文献が多いように思います。
英米以外の理論に親しむためには,様々な方法があると思いますが,途上国研究を専門にしている立場からしたら,やはり途上国にぜひ目を向けて頂きたいということです。自分が関心を持つ国がひとつでもふたつでもあれば,そうした国で障害学があるかどうか,ぜひ探って頂きたいと思います。またその国の障害当事者たちが,海外の障害学の情報に接しているかどうか知ることも大事です。そうした交流を通じて,その国の障害当事者たちの課題,彼らのとらえる「社会的障害」やそれへの対峙の仕方など多くのものを学べます。実際には,多くの国々で英米の理論も紹介されています。そして興味深いのは,それを彼らも,英米の理論をそのままただ理解するのではなく,彼らなりの理解,彼らなりの解釈の仕方もそれぞれ持っておられるということです。恐らく同じようなことは,日本でも起きているのではないかと思います。こうした現地の文脈の中で何が変わってきているのか,どのような新しい発想が生まれているのかにもっともっと皆さんに関心を持って頂きたいと思っています。
先進国の中でも当日の議論の中でお話ししたように英米以外の北欧やドイツ,オーストラリア,カナダなどの障害学があります。言語的な問題によりアクセスが難しいケースもありますが,ぜひそうした他の国々の障害学にも関心を向けて,それらも念頭に置きながら,日本の障害学の現在と将来をぜひ一緒に考えて頂けたらと思います。
○ 「障害学のポテンシャルについて」
「障害」を切り口に問題を考察するのが、障害学だとすれば、『障害』から見えてくる、つまり障害学の知見を用いた、近代の生産力至上主義へのアプローチ、というような広がりに言及してほしいと思った。
そのようなポテンシャルについて、どう考えるか、聞きたい。
この本ではいわゆる「障害」をどう見ていくか、という話に終始しているように読めた。
そこが残念だと思った。
● 質問をありがとうございます。
ひとことではなかなか答えられない質問だと思いますが,大事な問いだと思います。「近代の生産力至上主義」というのが,どういうものなのか,そこも考えないといけないと思います。「生産力」というのは,通常,経済学でいう生産能力や労働の生産性のことを指しているのだろうと思いますが,それに価値を置くのが間違いという立論なのか,それとも価値を置きすぎるのが問題だという立論かでも話は少し違ってくると思います。英国での障害学は,ご存じのようにマルクスの議論の延長線上で展開されています。マルクスの経済学だと,イギリスの古典派経済学の労働価値説に乗っ取っていますから,イギリスでの障害学の主流の議論では,労働価値自体のラディカルな批判というよりは,労働市場からの障害者の排除あるいは,労働の場で障害者の能力を奪う仕組みに焦点を当てています。そうした社会の構造を暴き出し,その排除やエイブルイズムの仕組みに対し問題提起していくというのが主流のパターンです。これに対し,そういう議論ではダメだ,そもそも労働価値説から批判し始めなければならないという議論をされる方もおられるでしょう。立命館の立岩先生たちの生存学のアプローチは,そちらに近いように思います。
期待されている障害学の知見を用いたアプローチというのが,どういう方向で展開しうるかというのは,ここまでお答えしただけでもいくつかの方向性が可能だというのが分かると思います。私は,「障害学のリハビリテーション」の著者でもなく,後の討論にも参加しておりませんので,本についての直接的なご質問には答えられませんが,願わくは,そうしたいくつかの方向性のひとつが本書でも目指されていて欲しいという期待を持っております。恐らく,本書でのそうした方向性については,星加さんから回答があるかもしれません。
自分自身の方向性としては,おっしゃるようなポテンシャルのひとつは,A・センのケイパビリティ・アプローチを丁寧に障害についてもなぞり直してみるところから見えてくるのではないかと思います。これは今回の本ではほとんど触れられていないと思います。指定討論の議論でも紹介したナスバウム(M.Nussbaum)を始めとして海外で議論が盛んなようなので,それらの読み込みと障害学との対話が今後,もっとなされて欲しいと思っております。

2014年3月31日

質問・コメントカードへの回答 3

西倉実季

西倉実季「「未知なる発展可能性をひらく」リハビリテーションのために」へ当日寄せられた質問・コメントへの西倉の回答です。

○ 自分はAsperger障害というみえにくい障害を持っているので、大変参考になった。
精神障害・発達障害の現状について、障害の社会モデルはどこまでカバーできているのであろうか?
東大の内では、発達障害を気にしないで生活できるのに、少し学外に出ると、“ヘンな人”と思われるので、社会モデルのフロンティアについて、精神障害の現状を、コメントいただけると、少しうれしいです。
● 十分な知識を持ち合わせておらず、「精神障害の現状」について直接コメントすることができないのですが、いただいたコメントに触発されて自分の考えを整理することができました。それをまとめ、私からの回答とさせていただきます。
星加論文では、これまでの社会モデルが、社会の側にある障壁と障害者が被る不利益との対応関係が明確で、その解決策が提示しやすいケースに偏って利用されてきたことが指摘されています。そうしたケースの中でもとりわけ、交通機関の不備や資格取得の制限など、物理的・制度的に「そこにあって(障害者を)できなくさせている障壁」が関係しているケースに関心が集中してきたように思われます。しかし、精神障害や発達障害のある方たちが被る不利益を明らかにしていくには、こうした把握しやすい障壁だけでなく、身体的差異への社会的な意味づけ(特に否定的なサンクションをともなう意味づけ)を問題化していく必要があると思います。“ヘンな人”という視線は、まさにそうした意味づけのあらわれではないでしょうか。そのような視線によって、たとえば学外での活動に消極的になったり、障害を隠さなければならないと思ったりすることも「障害者が被る不利益」のはずですが、これまでの社会モデルを用いた障害学においては、それほど議論されてこなかったというのが私の理解です。
また、精神障害や発達障害といった「みえにくい障害」については、障害者が被る不利益を解消するにあたって、合理的配慮という方法が決して万能ではないことにも注意が必要だと思います。なぜなら、合理的配慮を受けるには、自分に障害があることを相手方に知らせる必要がありますが、障害の種別によっては、そのことが差別や偏見につながる場合もあるからです。こうした状況では、「みえにくい障害」をもつ人は、差別や偏見のリスクと引き換えに合理的配慮を要求するかどうかという難しい選択を迫られることになります。このような問題の改善のためにも、上記の「身体的差異への社会的な意味づけ」を問題化していくという課題はよりいっそう重要になってくると思います。
○ マイノリティ・モデルと、ユニバーサル・モデルは、どちらかを重視しなければならない根拠はどこにあるのでしょうか?
両立可能な、あるいは、いずれの戦略も必要ではないかと思うのですが、この2つのモデルがどこで対立するのか、を具体的にご教示いただければと思います。
● ご質問ありがとうございました。
ご指摘の通り、マイノリティ・モデルとユニバーサル・モデルはつねにどちらかを選ばなければならないようなものではないと思います。たとえば、障害差別の禁止を考えていくにあたっては「障害」の範囲をできる限り広く捉えて、障害差別を被る人すべてを法的保護の対象に含め(ユニバーサル・モデル)、何らかの給付をともなう問題に関しては、ある程度限定した「障害」の定義を設定せざるを得ない(マイノリティ・モデル)といったように、文脈によって使い分ける必要があると考えています。おそらく、川島さんからは、両者の調和可能性についてコメントがあるのではないでしょうか。
『障害学のリハビリテーション』の序章では、「普通とみなされていない心身の特徴」という、かなり広いインペアメントの定義が採用されています。自分自身の研究テーマとの関連で、私はこの定義にたいへん興味を持ちました。そして、この本ではおそらく、誰もが人生のどこかの段階で経験しうるものとしてインペアメントを捉え、「障害」の普遍性を主張するユニバーサル・モデルの立場から、障害学の新たな可能性が開拓されるのではないかと期待しました。しかし、この点について本書では掘り下げられていなかったので、著者たちにこのようなインペアメントの定義を置いた意図を聞いてみたいと思いました(私の指定発言の4つめの論点です)。私がインペアメントの定義にこだわったのは、「障害学は何のために、どのようなものとして存在する(べき)か」という著者たちが掲げた問いに応答するには、インペアメントをどのようなものとして捉え、誰を当事者として巻き込んで、どのような戦略で障害学を構想するのか議論する必要があると考えたからです。

2014年3月31日

質問・コメントカードへの回答 4

川島聡

川島聡「権利条約時代の障害学―社会モデルを活かし、越える」へ当日寄せられた質問・コメントへの川島の回答です。

○ マイノリティ・モデルと、ユニバーサル・モデルは、どちらかを重視しなければならない根拠はどこにあるのでしょうか?
両立可能な、あるいは、いずれの戦略も必要ではないかと思うのですが、この2つのモデルがどこで対立するのか、を具体的にご教示いただければと思います。
● 私は,マイノリティ・モデルとユニバーサル・モデルのどちらか一方のみを重視すべきではない,と思います。これらの2つのモデルに対する私見は,以下の拙稿で記しております.ご覧いただけますと幸甚です。
* 拙稿「星加良司氏の書評に応えて」『障害学研究』8号192-199頁(2012年)
* 拙稿「障害差別禁止法の障害観――マイノリティモデルからユニバーサルモデルへ」『障害学研究』4号82-108頁(2008年)
* 拙稿「英国平等法における障害差別禁止と日本への示唆」『大原社会問題研究所雑誌』641号(2012)28-43頁(2012年)
○ 権利条約時代の障害学:社会モデルを生かし、超える、のCf.部分について、その主旨に「もろ手」を挙げて、賛同ですが、
・それをどう実現していくのか
・誰がどのように検証するのか
・障害当事者がそのプロセスで担う役割を、制度的にどう保証していくのか、
具体的な構想はあるならば、少し語っていただきたいです。
● 私は,公的な制度としては,日本では障害者政策委員会,世界では国連障害者権利委員会が,それぞれ重要な役割を果たしうるポテンシャルがある,と期待しています。障害者権利条約を実現するために,「抵抗の障害学」と「制度の障害学」を往復させながら,公的機関と民間機関によるローカルレベル,ナショナルレベル(日本),リージョナルレベル(アジア太平洋地域),グローバルレベル(国連)の各取組みを有機的に繋いでいく必要があると思っていますが,具体的な構想は今ご回答できる段階まで固まっておりません.(川島聡)
○ 障害者基本法の障害者の定義に対して、川島さんはどのように評価されているのでしょうか。
● 私は,障害者基本法(2011年改正)の障害者の定義は,障害者権利条約の障害者の概念(1条)に沿ったものだと思います.ただ,障害者基本法と障害者権利条約の趣旨・目的に照らして,これらの文書が定める障害者の定義・概念は,障害の社会モデルの実質的側面に沿った運用がなされる必要がある,と思っています。この点につきまして,岩村正彦、菊池馨実、川島聡、長谷川珠子「[座談会]障害者権利条約の批准と国内法の新たな展開―障害者に対する差別の解消を中心に」『論究ジュリスト』8号4-26頁(2014年)の中で,私は具体的に言及しております。御高覧いただけますと幸いです。
○ 1.障害者――私は生活困難者という考えをしているが、障害とは何?(生計、(村)意識、社会合意形成、多数決、権威、権力階層など様々な生活困難であり身体・精神的健康のみならず社会的健康の中での健常者とならない場合)
2.因果論というような考えは成立するのか? 循環しているのでは? そのため定常性を有してしまうのでは?
● 1.障害とは何か,障害者とは誰か,は非常に大きな問いだと思われます.この点については,川越敏司・川島聡・星加良司編著『障害学のリハビリテーション―障害の社会モデルその射程と限界』(生活書院,2013年),松井彰彦・川島聡・長瀬修編『障害を問い直す』(東洋経済新報社、2011),拙稿「英国平等法における障害差別禁止と日本への示唆」『大原社会問題研究所雑誌』641号(2012)28-43頁(2012年)などの中で,私見を記しております.
2.社会モデルの用語法は、御指摘のような点を含んでいることが知られています。その理由は、社会的障壁によって生じた不利益を「障害」と名付けるのであれば、その「障害」が社会的障壁によって生じているのは当然であるからです。すなわち、社会的障壁から生じた不利益を「障害」と定義した以上、わざわざ、その「障害」は社会的障壁から生じる、と主張することに意味はありません。
社会モデルを用いた議論が循環的な議論にならないためには、議論の出発点をどこかに据える必要があります。この点、私の理解では、障害学が「実学」である以上、当事者の不利益を議論の出発点に据えることが、まず必要になると思います。その上で、社会モデルの因果関係の視点に立って、その不利益の原因を社会的・経済的・文化的な文脈の中に見い出していくことによって、何か有益な知見を獲得して、さらにその知見を障害理論の構築等につなげていくことが、障害学の発展のためには必要になると思います。なお、社会モデルの因果関係の視点は、当事者(権利運動)の視点といってもよいものです。
当事者の経験している現実の不利益が存在してはじめて、その原因を論じる意義が出てきます。その原因を、心身の特徴(インペアメント)ではなく、社会(社会的障壁)に求めたのが、社会モデルの因果関係の側面です。この点、社会的障壁との関係で生じた当事者の不利益を「障害」と名付けたこと(社会モデルの用語法の側面)は、もちろん一定の意義はあったと思いますが,同時に、様々な混乱(御指摘の点を含みます)をもたらしたことも否めないと思います。
最後に、社会モデルに関する私見の概要を記します。社会モデルは因果関係的な視点です.社会モデルは,物事の体系的な説明(理論)ではありません.社会モデルを用いる場合には,障害者が実際に経験している不利な状態という現実を出発点にする必要があります.社会モデルは,ヒューリスティック・デバイス(発見道具)としての役割を果たします.すなわち,社会モデルを用いることで,いろいろな有益な知見が直観的に得られやすくなります。その知見を手掛かりにして,障害の理論と実践を積み重ねていくことによって,障害学はさらに建設的に発展していくように思われます.