READ公開講座
2012年3月17日開催READ 公開コンファレンス「障害と経済」
「当日お答えできなかった質問への回答」
「はたらかない自由」あるいは、いわゆる経済的な利潤はうまない(利潤につながらない)かたちではたらく自由(あるいは既存の「労働(はたらく)」観を拒否する自由)といったものは経済学の立場からはどのように考えるのでしょうか。みとめたり、追求しうるでしょうか。
働かない自由、怠ける権利といった言葉が、一部の経済学陣営から資本主義的な賃労働制度への批判として提示されています。マルクスも言うように、現代の社会全体の生産力の高さには目を見張るものがあります。おそらく、極端な贅沢をしない限り、誰もが一日数時間働くだけで社会全体の必要を満たすことができ、余った時間を各自の人格的発展のために利用できることでしょう。
ところが現実の社会はそのようになっておらず、失業者がたくさん発生する一方で、低賃金で長時間労働を強いられるような人々もたくさんいることでしょう。このような状況を見据えて、ラディカルな改革としては「革命」ということも考えれるでしょうが、もう少し穏健な立場では、労働市場の働きにどこか問題があると考え、それを改善する道を探ることになるでしょう。
市場については様々な見方・立場が存在すると思いますが、なかでもフリードリッヒ・ハイエクという経済学者は、市場とは知識を集積する効率的な情報システムだと考えました。ひところ、複雑系の科学が流行した時にロングテールという言葉が広まりましたが、それも関連した事柄です。
インターネットなどの情報技術の発展により、いままで誰も見向きもしなかった商品が市場で取引されるようになる。いままで売り物になると思わなかったものについて、実は高値で買い取りたい人がいることがわかる。情報技術と市場とがうまく結びつくことで、新しい市場が生み出され、全く新しい人間関係が生み出されていく。
かつてマルクスは資本主義社会を巨大な商品の集積、すなわち、すべてが商品化され市場で取引される社会だと述べましたが、実はその商品化は不十分であり、まだ商品化されずに埋もれているものがたくさんある。それを発見し、流通させ、人々の認識を変えていく装置がハイエクの考える市場なのです。
脳性まひ患者から構成される「青い芝の会」から発せられた名言の一つに「寝返りをうつのも労働だ」というものがあります。わたしは、働かない自由、怠ける権利という言葉よりも、こちらの方が好きです。マルクスも言うように、労働は人間の能力を発展させる本質的な活動であると思うからです。いまは商品とならない労働をどうやって市場化していくか。ここに知恵を絞っていきたいと思うのです。
あるいはこのように書くと、資本主義経済制度の持つ矛盾に目をつぶり、それにおもねる日和見主義ではないかとお考えになるかもしれません。しかし、わたし自身は、資本主義経済の生産力にせよ、市場の情報集積能力にせよ、まだまだ発展させ、利用する余地があり、そこにチャンスがあるのではないかと考えています。
アファーマティブ・アクション(ポジティブ・アクション、積極的差別是正処置)に関して、障害者やマイノリティへの配慮の提供が企業の生産性を下げるかもしれないという危惧に対して、むしろそれを高める場合もあるという研究があります。こうした知識をもっと広めていくためにも、障害者はもっと労働現場に参画していただきたいし、また企業の側でもさらに障害者雇用を増やしていき、偏見をなくしてもらう必要があると考えています。
ですので、結論としては、わたしは障害者が働かない自由ではなく、働く自由をこそ追及するべきではないかと考えます。そして、こうした問題は経済学の問題としてきちんと定義できる問題であり、さらに研究が必要な領域であると考えています。
「制度推進会議の中で、知的の方の声がなかなかすいあげられない(身体の方の声が大きく通っている)印象がありますが、どのように思われますか?」
ご質問、ありがとうございます。当日、お答えできず申し訳ありませんでした。推進会議、そして総合福祉部会に知的障害の方が入っていることは本当に重要な「参加」の面で前進だと思っています。
合理的配慮として、イエローカード(アクセシビリティカード)の使用、議長の配慮、資料への振り仮名、分かりやすい資料(私自身、「わかりやすい第1次意見」、「わかりやすい第2次意見」、「わかりやすい改正障害者基本法」の編集作業に知的障害者である構成員と共に携わることができたのは本当に貴重な経験でした)が実施されたことは、知的障害者の実質的参加の促進策としても画期的だったと思います。それでも、知的障害の方の参加が十分かといえば、そうではないと思います。
ただ、他障害の方との比較については慎重に考えています。私自身、社会的活動としては、知的障害者本人と家族を中心とする国際育成会連盟(インクルージョンインターナショナル)の理事を務めている立場ですが、他障害の方が風穴を開ける、突破口を開いてくださることは知的障害の人にとってもプラスの効果があると考えているからです。
社会モデル的に考えると、インペアメント(障害種別)の違いを超えて、ディスアビリティを共有する点で初めて、「障害者」は連帯することができます。当然ながら、インペアメントごとに直面させられる困難や社会的不利の形態は異なります。日本はこれらすべてを「身体障害」というカテゴリーでくくってしまっている、ろう・難聴の方、肢体不自由の方、視覚障害の方、それぞれの困難や社会的不利の形自体がまず相当異なっています。
そして、「身体障害」ではない、精神障害の方、知的障害の方、それぞれの困難、社会的不利、排除の形も異なっています。それでも、「障害者」という連帯が成立できるのは、様々な形で現れる社会的障壁の除去、合理的配慮の欠如に取り組むことによって、他のインペアメントの仲間の課題、すなわち、社会的障壁除去、合理的配慮の提供という差別撤廃の取り組みにも間接的ながら取り組んでいることになるからです。
さらに申し上げれば、障害者の権利条約が繰り返し記述しているように比較の対象は「障害者」ではない人です。
知的障害者の場合、もう一つの課題があります。いわゆる「重度」の知的障害者の参加の課題です。通常の言葉でのコミュニケーション手段を持たないような方たちの参加をどのように求めるのかという課題があります。従来は、軽度の知的インペアメントの方を含めて、家族や専門家、支援者が「代弁」してきました。
ようやく比較的軽度の方は、「本人」 self-advocate として参加が推進会議等でもできるようになり、それは本当に大きな前進だと思います。しかし、いわゆる「重度」の方たちは会議で発言するという形での「参加」は難しいかもしれません。その方たちの声を伝えられるのは誰かという問題です。
本人活動に参加する知的障害者が「代弁」できる面も確実にあるでしょうし、支えている家族や支援者の場合もあるでしょう。そして、「身体障害」など他障害の方の場合もあるでしょう。
実際、今週、バンコクで開催された国連アジア太平洋障害者経済社会委員会(ESCAP)の次のアジア太平洋障害者の10年(2013-2022年)のインチョン戦略に関する政府間の準備会合でも、ろう者の代表が、知的障害者の情報保障(わかりやすい情報提供)の重要性について語ってくださっていて、大変、心強く感じたばかりです。
もっとも深刻な被害を受けた人(たとえば災害による死者)やダメージを受けた人自身は語ることができないという「環状島モデル」(宮地尚子、2007、 『環状島=トラウマの地政学』みすず書房)があります。これは、知的障害の場合にも当てはまる面があるかもしれません。
重度の知的インペアメントの方の声を、少しでも社会で共有するためには、他の知的障害の方と家族、支援者、専門家、そして他の障害の方を含むすべての関心のある人たちの力が必要だと感じています。
"Nothing about us without us" は、障害者の決定への参加を訴える言葉ですが、障害者だけによる決定を求めているものでもありません。社会全体の決定過程への障害者の参加を進めるうえで、推進会議の取組は明らかに前進だと思います。しかし、知的障害者の参加を含めて、課題はまだまだ大きいと考えています。
とりとめもなく、長々と書いてしまいました。少しでもお答えになっていれば幸いです。